一事のすぐるるだにあるに、かくいづれの道も抜け出でたまひけむは、いにしへも侍らぬことなり。(大鏡)

〈問〉次の傍線部を現代語訳せよ。

ひととせ、入道殿の大堰川おほゐがは逍遥せうえうせさせたまひしに、作文さくもんの船、管絃くわんげんの船、和歌の船とわかたせたまひて、その道にたへたる人々を乗せさせたまひしに、この大納言殿のまゐりたまへるを、入道殿、「かの大納言、いづれの船にか乗らるべき」とのたまはすれば、「和歌の船に乗りはべらむ」とのたまひて、よみたまへるぞかし、

  をぐら山あらしの風のさむければ紅葉の錦きぬ人ぞなき

申し受けたまへるかひありてあそばしたりな。御みづからものたまふなるは、「作文のにぞ乗るべかりける。さてかばかりの詩を作りたらましかば、名の上がらむこともまさりなまし。口惜しかりけるわざかな。さても、殿の、『いづれにかと思ふ。』とのたまはせしになむ、われながら心おごりせられし」とのたまふなる。一事のすぐるるだにあるに、かくいづれの道も抜け出でたまひけむは、いにしへも侍らぬことなり

大鏡

現代語訳

ある年、入道殿が大堰川で船遊びをなさった時に、漢詩作りの船、管絃の船、和歌の船とお分けになって、その道にすぐれた能力のある人々をお乗せになったが、この大納言殿が参上なさったところ、入道殿は、「あの大納言は、どの船にお乗りになるのだろう」とおっしゃると、(大納言殿は)「和歌の舟に乗りましょう」とおっしゃって、お詠みになったことよ、

小倉山と嵐山から吹きおろす嵐の風が寒いので、散りゆく紅葉が着物にかかり、錦の衣を着ていない人はいない

(自分から和歌の船を)申し受けなさったかいがあって(すばらしく)お詠みになったことよ。ご自身もおっしゃったとかいうことは、「漢詩の舟に乗ればよかった。そうしてこれくらいの漢詩を作ったならば、名声が上がるようなこともいっそう優れただろう。残念なことだよ。それにしても、入道殿が、『どの舟に(乗ろう)と思うのか』とおっしゃったときには、我ながら得意にならずにはいられなかった」とおっしゃった。一事に優れることでさえ稀であるのに、このようにどの道にも秀逸でいらっしゃったとかいうことは、昔にもございませんことである

ポイント

だに 副助詞

「だに」は、副助詞「だに」です。

「唯に」が「だに」になったものであり、「最小限」「最低限」の意味合いになります。

意志・願望・命令などの文脈であれば、「せめて~だけでも(しよう・したい・せよ)」と訳します。

打消の文脈であれば「~さえ(ない)」と訳します。

前者の訳し方を「最小限の限定」といい、後者の訳し方を「類推」といいます。

「類推」のほうは、「最小限のAさえない。(だからBはもちろんない)」というように、「ただひとつのAがない」ことを示すことで、「(Aがないということは)当然Bもない」ことを暗に意味することが多いです。

この例文でも、「一つの事に優れていることさえ稀であるのに、どの道にも優れているということは過去にも存在しない」という意味になります。

「稀」という語はどこにも書かれていないのですが、「だにあり」という連語になっている場合は、「だに」と「あり」の間に文脈上適切な語を補って訳すことになります。

ここでは後ろの部分に「昔にもありません」とありますから、構造上、「ほんの少ししかない」といった意味内容が入るといいです。そのため、「稀である」「希少である」などといった意味を補って訳すのがいいですね。

たまふ 敬語動詞 *尊敬語

「たまひ」は、敬語動詞「たまふ」の連用形です。

ここでは「抜け出で」についている補助動詞になるので、「お~になる」「~なさる」「~ていらっしゃる」などと訳します。

「抜け出づ」は、ここでは「能力が突出している」ということですから、「優秀でいらっしゃる」などと訳せます。

けむ 助動詞

「けむ」は、「過去の伝聞」の助動詞「けむ」の連体形です。

「けむ」は、「①過去の推量」「②過去の原因推量」「③過去の伝聞」などの意味がありますが、「文末用法」であれば①②の用法です。「文中連体形」の場合は③の用法が多くなります。

ここでは、「抜け出でたまひけむ(こと)は」「抜け出でたまひけむ(人)は」というように、「こと」「人」といった体言が省略されていると考えられる「文中連体形」の用法です。「過去の伝聞」とみなし、「~とかいう」「~たそうだ」などと訳しましょう。

侍り 敬語動詞 *丁寧語

「侍ら」は、敬語動詞「侍り」の未然形です。

本動詞の場合、謙譲語として「お仕えする」と訳すか、丁寧語として「あります・おります・ございます」と訳すか、文脈から判断することになります。

ここでは、誰かにお仕えしている文脈ではないので、丁寧語と判断して、「ございます」などと訳しましょう。

直後の「ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形なので、「ごぜいません」と否定的に訳すことになります。

なり 助動詞

「なり」は、「断定」の助動詞「なり」の終止形です。

「~だ」「~である」と訳しましょう。

侍らぬことなり

という表現は、そのまま逐語訳すれば「ございませんことである」となりますが、「丁寧」の意味を下におろして、「ないことであります」などと訳す場合もあります。

このように、「途中にある丁寧語」は、文末におろして、連語全体を丁寧にしてしまう方法もあるので、念頭に置いておきましょう。選択肢の訳などは、けっこうこういう訳し方をしてきます。