さがなき童部どものつかまつりける、奇怪に候ふことなり。(徒然草)

〈問〉次の傍線部を現代語訳せよ。

御前なる獅子・狛犬、そむきて、後さまに立ちたりければ、上人いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ちやう、いとめづらし。深きゆゑあらん」と涙ぐみて、「いかに殿ばら、殊勝のことは御覧じとがめずや。無下なり」と言へば、おのおのあやしみて、「まことに他に異なりけり。都のつとに語らん」など言ふに、上人なほゆかしがりて、おとなしく、物知りぬべき顔したる神官を呼びて、「この御社の獅子の立てられやう、定めて習ひあることにはべらん。ちと承らばや」と言はれければ、「そのことに候ふ。さがなき童部どものつかまつりける、奇怪に候ふことなり」とて、さし寄りて、据ゑなほして、往にければ、上人の感涙いたづらになりにけり。

現代語訳

神殿の御前にある獅子と狛犬が、(互いに)背を向けて、後ろ向きに立っていたので、上人はたいそう感心して、「ああすばらしい。この獅子の立ち方は、たいそう珍しい。深いわけがあるのだろう」と涙ぐんで、「なんと、皆の衆、このすばらしいことをご覧になって、気にとめないのか。あまりにひどい」と言うので、それぞれ不思議がって、「本当に、他(の獅子・狛犬)と違っていたのだなあ。都へのみやげ話にしよう」などと言うと、上人はいっそう(わけを)知りたがって、年配の、いかにも物を知っているに違いない顔をしている神官を呼んで、「このお社の獅子の立てられ方は、きっと言い伝え【由緒】があることでございましょう。少々うかがいたい【お聞きしたい】」と言われたところ、「そのことでございます。いたずらな子どもたちがし申し上げた(いたしました)、けしからんことでございます」と言って、近くに寄って、置きなおして、行ってしまったので、上人の感動の涙は、むだになってしまった。

ポイント

さがなし 形容詞

「さがなき」は、形容詞「さがなし」の連体形です。

「さが(性)」が「もともとの性質・本性」を意味する語です。

「さがなし」の「なし」は「無し」ではなく、語気を強める接尾語の「ーなし」だと言われます。

ある対象の「性質・本性」が注目される場合というのは、それが「気になるとき」ですよね。

たとえば、ある人間の「性格が気になる」場合というのは、たいていは「性格が悪い」場合ですよね。そういう意味で、「よくない性質」という文意で使用される形容詞です。

「さがなし」は、「気になる性質である=悪い性質である=いじわる」というニュアンスになります。

大人に適用する場合には「意地が悪い」、子どもに使う場合には「やんちゃだ・いたずらだ」などと訳すことが多いです。

あとは、「もの言ひさがなし」とか「口さがなし」というように、「言葉遣い」の話題で用いされることが多く、その場合には、「口が悪い」と訳します。

ここでは、「獅子・狛犬」の向きをひっくり返した子どもに対して「さがなし」を用いているので、「やんちゃだ」「いたずらだ」と訳しましょう。

つかまつる 敬語動詞(ラ行四段活用)

「つかまつり」は、敬語動詞「仕る(つかまつる)」の連用形です。謙譲語です。

神仏や貴人に従事するのであれば、「お仕え申し上げる」と訳します。

神仏や貴人に何かをはたらきかけるのであれば、「し申し上げる」「いたします」「いたす」などと訳します。

ここでは、いたずらな子どもが「獅子・狛犬」という「敬うべきもの」に対して「向きを変える」という行為をはたらいたわけですから、「し申し上げた」と訳します。

ただ、漠然と会話を丁寧にしているとも考えられるので、「いたしました」などと訳すことも可能です。

選択肢問題なら、「向きを反対にし申し上げた」「逆向きにいたしました」などと、「行為の内容」を具体的に書いてくる可能性もあります。

奇怪なり 形容動詞(ナリ活用)

「奇怪に」は、形容動詞「奇怪なり」の連用形です。

「奇」も「怪」も「普通とは違っている」ということですから、「とても違っている」というニュアンスになります。そのことから、「とんでもない」「けしからん」などと訳すことが多いです。

候ふ 敬語動詞(ハ行四段活用)

「候ふ」は、敬語動詞「さふらふ」の連体形です。

本動詞の場合、謙譲語(お仕えする)か丁寧語(あります・おります・ございます)で、補助動詞ならば丁寧語(です・ます・ございます)になります。

「奇怪に候ふ」ということで、ここだけ見ると「とんでもないです」などと訳すことができますが、直後に「奇怪に候ふことなり」と文が続くので、「とんでもないことでございます」というように、「丁寧表現」を最後におろして訳しても大丈夫です。

なり 助動詞

「なり」は助動詞「なり」の終止形です。

「断定」の意味であり、「~である」と訳します。

「候ふ」のところで述べたように、「候ふ」の持つ「丁寧」の意味を文末におろして訳すのも一般的なことです。その場合、「である」という表現自体は「ございます」にとってかわられることになるので、「である」は訳に出ないことになります。