あこがれ/門出 『更級日記』 現代語訳

『更級日記』より、「あこがれ」「門出」の現代語訳です。

テキストによっては、「東路の道の果て」などのタイトルです。

あづまぢの道の果てよりも、~

あづまぢの道の果てよりも、なほ奥つかたに生ひ出でたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひはじめけることにか、「世の中に物語といふもののあんなるを、いかで見ばや」と思ひつつ、つれづれなる昼間、宵居よひゐなどに、姉、継母などやうの人々の、その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど、ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、わが思ふままに、そらにいかでかおぼえ語らむ。

東海道の道の果て(である常陸国)よりも、さらに奥のほう(である上総国)で育った人【私】は、どんなにか洗練されず田舎じみていただろうに、どういうわけで思い始めたのか、世の中に物語というものがあるというのを、どうにかして見たいと思い続けながら、することがなく退屈な昼間や、夜遅くまで起きている語らいのときなどに、姉や継母などのような人々が、その物語、あの物語、光源氏の様子など、ところどころ語るのを聞くと、ますます読みたい気持ちがつのるが、私の思いどおりに、(人々が)どうしてそらんじて話してくれようか、いや、話してはくれない。

いみじく心もとなきままに、~

いみじく心もとなきままに、等身に薬師仏を造りて、手洗ひなどして、人まにみそかに入りつつ、「京にとく上げたまひて、物語の多くさぶらふなる、ある限り見せたまへ。」と、身を捨てて、額をつき、祈り申すほどに、十三になる年、「のぼらむ。」とて、九月三日ながつきみか門出して、いまたちといふ所に移る。

たいそうじれったいので、(自分と)同じ身の丈に薬師仏を作って、手を洗い清めるなどして、人の見ていない時にひそかに(仏間に)入っては、「(私を)京に早く上らせなさって、(都には)物語が多くございますとかいうものを、あるだけお見せください。」と、一心に額を床につき、お祈り申し上げるうちに、(私が)十三歳になる年、「(京へ)上ろう。」となって、九月三日に門出をして、いまたちという所に移る。

年ごろ遊び馴れつるところを、~

年ごろあそび馴れつるところを、あらはにこほちちらして、立ちさわぎて、日の入りぎはの、いとすごく霧りわたりたるに、車にのるとて、うち見やりたれば、人まには参りつつ額をつきし薬師仏の立ちたまへるを、見すてたてまつる悲しくて、人知れずうち泣かれぬ。

長年遊び慣れたところを、(外から)まる見えになるほど(几帳・御簾・障子などの)建具を乱雑に取り外して、あわただしく出発の準備をして、日の入りの間際の、たいそうひどく霧が立ち込めるときに、車に乗るといって、ふと向こうを見ると、人がいないときには参上しながら(床に)額をついた(お祈りした)薬師仏がお立ちになっているのを、お見捨て申し上げるのが悲しくて、人知れずさめざめと泣いた。