まし 助動詞

夢と知りせば覚めざらましを

意味

(1)【反実仮想】 もし~だったら、~だろう

(2)【不可能な希望】 ~ばいいのに・~だったらよかったのに

(3)【ためらいの意志・希望】 ~しようかしら

(4)【単純な推量・意志】 ~だろう・~しよう *中世以降の用法

ポイント

「推量・意志」の助動詞「む」に「し」がついて、「まし」になったという説があります。最初は形容詞のように使われていたものが、助動詞化したようです。

そのわりには、「む」とはけっこう訳し方が違うよね。

「現実性」の濃淡が異なります。

いったん「形容詞化」するということは、いわば「概念化」されるということなのですね。

たとえば、「行く」という語は、実際にどこかに行くという「現実性・具体性・限定性」が濃いことばですが、「行く」に「し」がついて「ゆかし」という形容詞になると、「心がそちらに行きたがっている」という状態を漠然と示すことばになります。

そうすると、「見たい」「聞きたい」「知りたい」などと、文脈にあわせて広い意味で用いられるようになります。「似た状態」を広く形容できるぶんだけ、「唯一の現実」における具体性は薄まるのです。

同じような構成として、「む+し」の「まし」は、「む」に比べると「現実性」が薄くなります。それゆえ、語り手の意図としては「非現実的」なことを表現する場合に使用されます。

「まし」は、「語り手のいる現実」「想像するイメージ」との間に「距離・隔たり」がある場合に使うのですね。

それが「反実仮想」ってやつなんだな。

そうです。

主に、

ませば、……まし (もし~だったら、……だろうに
ましかば、……まし (もし~だったら、……だろうに
~せば、……まし   (もし~すれば、……だろうに
(未然形)ば、……まし (もし~ならば、……だろうに

などの構文で使用されやすいです。

「まし」の未然形は、はじめは「ませ」でしたが、そのうち「ましか」が使用されていきました。

こういった構文は、英語でいう「仮定法」みたいなもんだな。

まさに、

If I were a bird,I could fly the sky.

などという仮定法の文は、

わが身の鳥ならましかば、空を飛ばまし

などと言うことができますね。

実現しそうにないことを想定する助動詞なんだな。

そのため、「不可能な希望」とか、「ためらいの意志」といった使い方にもなります。

「不可能な希望」というのは、主に「もう起きてしまったこと」に対して、「そうでなければよかったのに」と思う場合の用法です。

「まし」は、そのように、「非現実的なものを夢想する」ような使い方をしますので、「絶対に実現してほしい!」と思って使っているわけではないのですね。そのことから、「できるかどうかわからないけど……まあ、やってみよう」という感じで、「達成可能性が低い」ことに対しての「意志」を示すことがあります。それを「ためらいの意志」などと呼びます。

「ためらいの意志」というのは、「いかに」「や」などの語を伴い、「どうやって~しよう」「~しようかしら」などと訳すことが多いです。

とにかく、「可能性がない・・こと」とか、「可能性が薄い・・こと」に対する「推量・意志・希望」を表すんだね。

そうですね。「む」は「実現可能性」がまあまあ高いものであり、一方、「まし」は、「実現可能性」が「ない」あるいは「とても低い」ものです。

例文

鏡に色、形あらましかば、映らざらまし。(徒然草)

(訳)鏡に色や形がもしあったとしたら、何も映らないだろうに

「反実仮想」です。

ねたき。言はざらましを。(徒然草)

(訳)くやしい。言わなければよかったのに。

「不可能な希望」です。

しやせまし、せずやあらましと思ふことは、おほやうは、せぬはよきなり。(徒然草)

(訳)しようかしら、しないでいようかしらと思うことは、たいていの場合、しないほうがよいのである。

「ためらいの意志」です。

すべき方のなければ、知らぬに似たりとぞ言はまし。(徒然草)

(訳)すべき方法がないので、知らないのと同じだと(人は)言うだろう

中世以降は、このようにふつうの推量と同じ使い方も増えてきました。