平易で安心
意味
易し
(1)たやすい・容易だ・平易だ
(2)簡易だ・簡単だ・手軽だ・無造作だ
(3)~しやすい・~しがちだ *補助動詞として
安し
(1)安らかだ・穏やかだ
(2)軽々しい・気軽だ・気楽だ
ポイント
「休む」「休らふ」などと同根の語と考えられています。そのことから、平易で気楽なイメージをもっておくといいですね。
反対の意味で用いられる語は「かたし(難し)」です。あるいは「にくし(憎し)」も「やすし」と反対の意味合いを持ち合わせています。
つまり、「やすし」は、「難しくないこと」や「心がザワザワしないこと」を意味しています。
事態が複雑ではなく、すいすいと物事が進む状況をいう場合には、「たやすい」「容易だ」「簡単だ」などと訳します。そして、そういう状況におけるストレスのない心理状態をいう場合には、「安らかだ」「穏やかだ」などと訳します。
「心やすし」とかもあったよね。
「やすし」と「心やすし」は、ほぼ同じ意味になります。
というのも、もとは物事の状態を示すク活用形容詞が、次第に「その状態に接している人の心情」をも示すようになり、むしろその使い方が主流になるケースがあります。「やすし」もその一つです。
その一方で、「心○○」というように、頭に「心」がつく形容詞は、主に「心」がそういう状態であるということなので、「心情語」のように機能することになります。「心やすし」もその例にもれず、「心が安らかだ」という意味で用いられましたが、のちに「安心して取り組めるほど容易だ」ということで、「たやすい」という意味でも使用されました。
結果的に、「やすし」も「心やすし」も、「容易であること」と「安心であること」の両方を意味する形容詞として運用されました。
ある物事や現象の「状態」を形容しているのか、それに接している「心の動き」を形容しているのか、古文ではどちらともいえないあやふやなところがあるよね。
もともと、「人間の意識」のコントロール感が、現代よりはずっと希薄でありまして、何か大いなる自然の力のようなものによって物事が流れていくような感覚があるのですね。
そのため、「心の動き」も、「個人の意図」というよりは、「自然の流れ」の一部のような受け止め方がありました。その感覚においては、「心情」もある意味で「状態」なのです。
したがって古文では、「客観的な事実を示している/主観的な心情を示している」という二者をばっさり区別することはできません。
「やすし」のように「客観語」としても「主観語」としても用いられる語は、文脈に応じて適訳を考えることになりますが、「たやすく~」と訳しても「安心して~」と訳しても、どちらでも通用する場合がけっこうあります。
例文
過ちはやすきところになりて、必ず仕ることに候ふ。(徒然草)
(訳)まちがいは、たやすい【平易な】ところになってから、必ずいたすことでございます。
いみじうやすき息災の祈りななり。(枕草子)
(訳)たいそう簡単な、災いよけの祈願であるようだ。
財多しとて頼むべからず。時のまに失ひやすし。(徒然草)
財産が多いといって頼みにはできない。時が経つあいだに失いがちである。
補助動詞の用法は、「~しがちである」「~しやすい」などと訳します。
かく危ふき枝の上にて、やすき心ありて睡るらんよ。
(訳)このような危ない枝の上で、(どうして)安らかな気持ちがあって眠っているのだろうよ。
同じ程、それより下﨟の更衣たちは、ましてやすからず、(源氏物語)
(訳)(桐壺更衣と)同じ身分や、それより低い身分の更衣たちは、いっそう心穏やかではなく、
「安らかだ」「穏やかだ」という意味を「心情面」に用いている場合、「心が安らかだ」「心が穏やかだ」などと、「心」をつけて訳すことも多いです。
そういう点でも、「やすし」と「心やすし」は、ほとんど同じような訳になりますね。