『平家物語』より「敦盛の最期(あつもりのさいご)」の現代語訳です。
熊谷直実と平敦盛について
熊谷次郎直実がどんな人だったのかはこちら。
平敦盛がどんな人だったのかはこちら。
「さては、なんぢにあうては、名のるまじいぞ。~
「さては、なんぢにあうては、名のるまじいぞ。なんじがためにはよい敵ぞ。名のらずとも首をとつて人に問へ。見知らうずるぞ。」とぞのたまひける。
「さては、なんぢにあうては、名のるまじいぞ。なんじがためにはよい敵ぞ。名のらずとも首をとつて人に問へ。見知らうずるぞ。」とぞのたまひける。
「では、あなたに対しては、名のるまいぞ。あなたのためには(私は)よい敵だ。名乗らなくても(私の)首を取って人に問え。(私を)知っているだろう」と(敦盛は)おっしゃった。
熊谷、「あつぱれ大将軍や。~
熊谷、「あつぱれ大将軍や。この人一人討ちたてまつ(り)たりとも、負くべきいくさに勝つべきやうもなし。また討ちたてまつらずとも、勝つべきいくさに負くることもよもあらじ。小次郎が薄手負うたるをだに、直実は心苦しうこそ思ふに、この殿の父、討たれぬと聞いて、いかばかりか嘆きたまはんずらん。あはれ助けたてまつらばや。」と思ひて、後ろをきつと見ければ、土肥、梶原五十騎ばかりでつづいたり。
熊谷は、「ああ立派な大将軍だ。この人一人をお討ち申し上げたとしても、負けるはずの戦に勝つはずもない。また お討ち申し上げないとしても、勝つはずの戦に負けることはまさかあるまい。(自分の息子である)小次郎が軽い傷を負ったことさえ、直実はつらく思うのに、この殿(敦盛)の父は、(敦盛が)討たれたと聞いて、どれほどれほどお嘆きになるだろうか。ああ お助け申し上げたい。」と思って、後ろを きっ と見たところ、土肥、梶原(率いる軍勢が)五十騎ほどで続いている。
熊谷、涙をおさえて申しけるは、~
熊谷、涙をおさえて申しけるは、「助けまゐらせんとは存じ候へども、味方の軍兵、雲霞のごとく候ふ。よものがれさせたまはじ。人手にかけまゐらせんより、同じくは、直実が手にかけまゐらせて、後の御孝養をこそつかまつり候はめ。」と申しければ、「ただとくとく首をとれ。」とぞのたまひける。
熊谷が、涙をおさえて申し上げたことには、「お助け申し上げようとは存じますが、味方の軍兵が、雲霞のようにおります。まさかお逃げになることはできないだろう。(私以外の)人手におかけ申し上げる(ようなこと)より、同じことならば、直実の手におかけ申し上げて、死後の御供養をしてさしあげましょう。」と 申し上げたところ、(敦盛は)「ただ早く早く首をとれ」とおっしゃった。
熊谷、あまりにいとほしくて、~
熊谷、あまりにいとほしくて、いづくに刀を立つべしともおぼえず、目もくれ心も消えはてて、前後不覚におぼえけれども、さてしもあるべきことならねば、泣く泣く首をぞかいてんげる。
熊谷は、あまりに気の毒で、どこに刀を刺すのがよいとも思われず、目もくらみ心も消えはてて、前後不覚に思われたが、そうしてばかりもいられないので、泣く泣く(敦盛の)首を切ってしまった。
「あはれ、~
「あはれ、弓矢とる身ほど口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生まれずは、何とてかかるうきめをばみるべき。なさけなうも討ちたてまつるものかな。」とかきくどき、袖を顔に押しあてて、さめざめとぞ泣きゐたる。やや久しうあつて、さてもあるべきならねば、鎧直垂をとつて、首をつつまんとしけるに、錦の袋に入れたる笛をぞ、腰にさされたる。
「ああ、武士ほど残念であったものはない。武芸の家に生まれていなければ、どうしてこのようなつらいめにあうだろうか【このようなつらいめにあうことはないだろう】。「心もなくお討ち申し上げたものだなあ。」と、くどくどぐちを言い、袖を顔に押しあてて、さめざめと泣いていた。やや長い時間がたって、そうしてばかりもいられないので、(敦盛の)鎧直垂をとつて、首を包もうとしたところ、錦の袋に入れた笛を、(敦盛は)腰にお差しになっていた。
「あないとほし、~
「あないとほし、この暁、城の内にて管絃したまひつるは、この人々にておはしけり。当時味方に、東国の勢何万騎かあるらめども、いくさの陣へ笛持つ人はよもあらじ。上臈は、なほもやさしかりけり。」とて、九郎御曹司の見参に入れたりければ、これを見る人、涙を流さずといふことなし。
「ああかわいそうだ、今日の暁、平家の城の中で演奏をしなさっていたのは、この人たちでいらっしゃったのだなあ。現在味方に、東国の兵の勢力が何万騎かあるだろうが、戦の陣へ笛を持つ人はまさかいまい。身分の高い人は、やはり優雅であるなあ。」と言って、九郎御曹司に(首と笛を)お見せしたところ、これを見る人が、涙を流さないということはない。
後に聞けば、~
後に聞けば、修理大夫経盛の子息に大夫敦盛とて、生年十七にぞなられける。それよりしてこそ熊谷が発心のおもひはすすみけれ。
後になって聞いたところ、修理大夫経盛の子どもである大夫敦盛といって、生年十七歳になっていらっしゃった。その時から、 熊谷の出家しようという思いはますます強くなった。
直実は、その後出家して法然の門徒となり蓮生となのりました。