『徒然草』より「神無月のころ(かみなづきのころ)」の現代語訳です。
神無月のころ、~
神無月のころ、栗栖野といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入ること侍りしに、遥かなる苔の細道を踏み分けて、心細く住みなしたる庵あり。木の葉に埋もるる懸樋の雫ならでは、つゆおとなふものなし。
(陰暦)十月のころ、栗栖野という所を通り過ぎて、ある山里に分け入ることがございましたが、遥かに続く苔の細道を踏み分けて(行くと)、もの寂しい様子で住んでいる庵がある。木の葉に埋もれる懸樋の雫(の音)以外には、まったく音を立てるものがない。
閼伽棚に菊・紅葉など折り散らしたる、~
閼伽棚に菊・紅葉など折り散らしたる、さすがに住む人のあればなるべし。
閼伽棚に菊や紅葉などを折って無造作に置いているのは、そうはいってもやはり住む人がいるからだろう。
かくてもあられけるよと、~
かくてもあられけるよと、あはれに見るほどに、かなたの庭に、大きなる柑子の木の、枝もたわわになりたるが、周りをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか。
このようにしても(住んで)いることができるのだなあと、しみじみ感慨深く見るうちに、向こうの庭に、大きな柑子の木で、枝もたわわに(実が)なっているもの、周りを厳重に囲ってあったのは、少し興ざめして、この木がなかったなら(よかったのに)と思った。
よい風景に「台無し要素」が混ざっていて、これさえなけえば完璧なのになあと思うものってありますよね。