わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣船 (参議篁)

わたのはら やそしまかけて こぎいでぬと ひとにはつげよ あまのつりぶね

和歌 (百人一首11)

わたの原 八十島やそしまかけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人あま釣舟つりぶね

参議篁 『古今和歌集』

歌意

広い海原を、たくさんの島を目指して漕ぎ出してしまったと、都にいる人に告げてくれ。漁師の釣舟よ。

作者

作者は「参議さんぎたかむら」で、「小野たかむら」のことです。

一説には、六歌仙ろっかせんの「小野小町」や、三蹟さんせきの「小野道風」らの祖父と言われています。

学問に広く通じており、『令義解りょうのぎげ』(律令の解説書)の序文を書くほどでした。

また、上位の貴人にもきちんと発言できる精神の持ち主でした。

有名なエピソードとしては、内裏に立てられた札に書いてあった嵯峨天皇の悪口を読むエピソードがあるよ。

「ねこのこのこねこ、ししのこのこじし」ってやつだな。

このときは、嵯峨天皇もにっこり笑っていましたが……

こののち、仁明にんみょう天皇の時代に、篁は遣唐使の副使になります。

ところが2度ほど渡唐に失敗し、3度目には、もめごとが起きてしまいます。大使(藤原常嗣つねつぐ)の乗る第一船が破損したため、篁が乗るはずの第二船を第一船として、常嗣が乗ろうとするのですね。篁はこれに反発して、「道理にあわないし、自分も具合が悪いし、母ちゃんの世話もあるし」として、遣唐使船に乗ることを拒否します。そればかりか、遣唐使の事業を風刺する漢詩を作ります。

これに嵯峨上皇が怒り、篁は隠岐おきに流されることになります。「わたの原~」の歌は、その時に詠まれたものです。

2年後に許され、帰京し、参議にまで出世しました。「参議」は、実質上「中納言」の次の位置になります。

ポイント

わたの原

「わた」は、海の古称です。

たとえば、「わたつみ」「わだつみ」ということばは今にも残っています。

「わた・わだ」が「海」であり、「つ」は「の」の意味になる上代の助詞です。「み」は「霊」や「神」を意味しています。つまり「わたつみ」は、「海の霊・神」を意味していることになります。

「原」は、大きく広がっているということなので、「わたの原」は、「広い海原」などと訳すことになります。

八十島かけて

「八十島」は、「たくさんの島」ということです。

最終目的地は「隠岐」なのですが、そこに至るまでにはたくさんの島がありますので、それを「八十島」と詠んだのではないかと言われています。

難波(いまの大阪)から船を出し、瀬戸内海を進み、関門海峡を通って日本海に出て隠岐に達するというルートだと、たしかにたくさんの小島を通り過ぎていくことになります。

ただ、ルートについては不詳であり、山陰まで陸路で、出雲国千酌ちくみ駅から船出したという説もあります。

「かけて」は、動詞「かく」+助詞「て」です。

「かく」は、「ひっかける」「おおいかぶせる」「とりつける」など、様々な意味で使う動詞であり、「目標に対してはたらきかけをする」という意味でも用います。

現在でも、「ことばをかける」とか、「愛情をかける」とか、「気にかける」などと使いますね。

ここでは、「たくさんの島に対してはたらきかけをする」ということであり、要するにそちらに向かっているということなので、訳としては「目指す」などがいいですね。

漕ぎ出でぬと

「ぬ」は、完了の助動詞です。

「と」は助詞(格助詞)で、ここでは「引用」を表しています。

セリフや心内文などの直後の「と」「とて」は、「引用」のはたらきをする格助詞です。

人には告げよ (四句切れ)

嵯峨上皇の怒りをかい、隠岐に流されるという状況を考えると、「人」は、都にいる人々を指していると考えられます。

「都の人々」という広い存在ではなく、「妻」などの親族を限定的に指しているとも考えられます。

海人の釣舟 (体言止め)

「海人」は漁師のことです。

「漁師」そのものではなくて、「釣舟」にお願いしているところが、いっそう哀愁を感じさせるね。

そうですよね。

「漁師」にお願いしている歌だと、もしも実際に漁師が聞いていたら、「わかりました。伝えます」となるかもしれませんね。そうなると、「具体的な本当のお願い」になってしまいます。

しかし、篁は「釣舟」にお願いしているのですね。すると、相手が舟ですから、「うん、いいよ」とはなりませんよね。つまり、篁のお願いは海上に消えていくわけです。

流刑地に向けて舟が進みゆくことを、人に告げてほしいと思っても、そのへんに漂う舟に言ってみるしかないという、索漠とした孤独がしみじみと感じられる歌です。