『枕草子』より、「中納言参り給ひて」の現代語訳です。
ここでの「中納言」は、「藤原伊周」や「定子」の弟である「藤原隆家」のことです。
お姉さんである「定子」に、珍しい扇の骨を自慢しに来たのですね。
中納言参りたまひて、~
中納言参りたまひて、御扇奉らせたまふに、「隆家こそいみじき骨は得てはべれ。それを張らせて参らせむとするに、おぼろけの紙はえ張るまじければ、求めはべるなり。」と申したまふ。
中納言【藤原隆家】が参上なさって、(中宮様に)御扇を献上なさるときに、「隆家【私】はすばらしい(扇の)骨を手に入れました。それに紙を張らせて差し上げようと思うが、ありふれた紙は張ることができそうにないので、(すばらしい紙を)探しております【探しているおりますのだ】。」と申し上げなさる。
「いかやうにかある。」~
「いかやうにかある。」と問ひ聞こえさせたまへば、「すべていみじうはべり。『さらにまだ見ぬ骨のさまなり。』となむ人々申す。まことにかばかりのは見えざりつ。」と、言高くのたまへば、「さては、扇のにはあらで、海月のななり。」と聞こゆれば、「これは隆家が言にしてむ。」とて、笑ひたまふ。
(中宮様が)「(その骨は)どのようであるか。」とお尋ね申し上げなさると、(隆家は)「すべてがすばらしゅうございます。『まったくまだ見たことのない骨の様子だ。』と人々が申します。本当にこれほどの(骨)は見たことがない。」と、大きな声でおっしゃるので、(清少納言が)「それでは、扇の(骨)ではなくて、くらげの(骨)であるようだ。」と申し上げると、(隆家は)「これは隆家【私】のことばにしてしまおう。」と言って、お笑いになる。
かやうのことこそは、~
かやうのことこそは、かたはらいたきことのうちに入れつべけれど、「一つな落としそ。」と言へば、いかがはせむ。
このようなことは、きまりが悪いことの中に入れてしまうべきであるが(書き残すべきことではないが)、(周囲の人々が)「一つも書き落としてはならない。」と言うので、どうしようか、いや、どうしようもない(から書き残しておく)。
「見たことがない骨だ!」とみんなが言うんだよっていうエピソードを聞いて、清少納言は、「見たことがないってことは、扇じゃなくて、くらげの骨であるようだ・・・」という渾身のギャグをおみまいするのですね。
くらげは骨がないですから、誰もくらげの骨を見たことがありません。
ああ~。
それがあんまり面白かったもんだから、隆家は、「そのギャグ、おれの持ちネタにするわ」って言ったんだな。