六歌仙 『古今和歌集仮名序』 現代語訳

紀貫之の「仮名序」より、六歌仙の評価です。

近き世に、~

近き世に、その名聞こえたる人は、すなはち僧正遍照は、歌のさまは得たれども、まこと少なし。たとへば、絵に描ける女を見て、いたづらに心を動かすがごとし。

近い時代に、(歌人として)その名が聞こえている【評判になっている】人は、すなわち僧正遍照は、歌の姿はさまになっているが、真実の実感が少ない。たとえば、絵に描いてある女を見て、むだに心を動かすようなものだ。

在原業平は、~ 

在原業平は、その心余りて詞たらず。しぼめる花の色なくて、にほひ残れるがごとし。

在原業平は、その情緒があふれてことばが足りない。しおれた花の色がなくて、においが残っているようなものだ。

文屋康秀は、~

文屋康秀は、詞はたくみにてそのさま身におはず。いはば、商人のよき衣着たらむがごとし。

文屋康秀は、ことばの技巧はあるが、その姿は内容につりあっていない。言わば、商人が立派な衣服を着ているようなものだ。

宇治山の僧喜撰は、~

宇治山の僧喜撰は、詞かすかにして、始め終はり確かならず。いはば、秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。よめる歌多く聞こえねば、かれこれを通はして、よく知らず。

宇治山の僧喜撰は、ことばがあらわでなく【ぼんやりして】、(歌の)始めと終わりがはっきりしていない)。言わば、秋の月を見ているうちに、夜明け前の雲に出会ったようなものだ。(喜撰の)詠んだ歌は多く知られていないので、あれこれと比較して(みることができず)、よくわからない。

小野小町は、~

小野小町は、いにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにて強からず。いはば、よき女の悩めるところあるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。

小野小町は、昔の衣通姫の流れ【同じ作風】である。しみじみとした情趣であるが、強さがない。言わば、美しい女の、心労する物思いがあるのに似ている。力強くないのは、女の歌だからなのであろう。

大友黒主は、~

大友黒主は、そのさまいやし。いはば、薪負へる山人の、花の陰に休めるがごとし。

大友黒主は、その歌の様子がみすぼらしい【品がない】。言わば、たきぎを背負っているきこりが、花のかげに休んでいるようなものだ。

このほかの人々、~

このほかの人々、その名聞こゆる、野辺に生ふるかづらの、はひ広ごり、林に繁き木の葉のごとくに多かれど、歌とのみ思ひて、そのさま知らぬなるべし。

このほかの歌人について、その名が知られている人たちは、野に生えている葛【つる草】が這って広がって、林に繁る木の葉のように多いけれど、(詠みさえすればどんなものでも)歌とだけ思って、歌の(真の)姿を知らないに違いない。

いろいろケチをつけてはいますが、「ほかの歌人」は「たくさんいる」けれど、「歌の姿を知らない」と述べていますので、結局のところ六歌仙はほめられていることになりますね。

高次元のツンデレみたいなもんだな。