〈問〉傍線部の古文を現代語訳せよ。
一道に携る人、あらぬ道の筵に臨みて、「あはれ、わが道ならましかば、かくよそに見侍らじものを」と言ひ、心にも思へる事、常のことなれど、よにわろく覚ゆるなり。知らぬ道のうらやましく覚えば、「あなうらやまし。などか習はざりけん」といひてありなん。
徒然草
現代語訳
一つの専門分野に携わる人が、専門外の分野の会合に臨んで、「ああ、自分の専門分野であったら、このように他所事として見ないでしょうに」と言い、心にも思うことは常のことであるが、実に好ましくないと思われるのである。自分の知らない分野がうらやましく思われるならば、「ああうらやましい。どうして習わなかったのだろうか」と 言っているのがよかろう。【言ってすましてしまうのがよい】
ポイント
あな 感動詞
「あな」は感動詞です。「ああ」と訳します。
形容詞や形容動詞の直前につくことが多いです。
などか 副詞
「などか」は副詞です。「どうして」と訳します。
「疑問」にも「反語」にもなりますが、ここでは文脈上「疑問」になります。
けん 助動詞
「けん」は、助動詞「けん」の連体形です。
ここでは「過去推量」の意味です。「~ただろう」と訳します。
なむ 連語
「なむ」は、助動詞「ぬ」+助動詞「む」の連語です。
連用形+なむ
の場合、助動詞「ぬ」+助動詞「む」が連続して、「なむ」になっています。
ほとんどの場合、このときの「む」は「意志(~しよう)」か「推量(~だろう)」です。
ただし、この文脈では、「このようなときはこうしたほうがよい」という意味合いで使用していますので、「適当(~がよい)」の用法だと考えるのが妥当です。
助動詞「ぬ」の意味はどこへ行ったんだ?
助動詞「ぬ」は、何らかの現象や運動が事実上成立することを意味します。
根本的な意味は「~てしまう」ということなので、「連用形+なむ」であれば、「~てしまうだろう」「~てしまおう」と訳すことができます。
今回の例文の場合は、「む」を「適当」と考えて、「~てしまうのがよい」としてもいいですね。
「ぬ」を「た」と訳さなくてもいいんだな。
完了の助動詞「ぬ」「つ」は、文脈的には「過ぎ去ったこと」に使用されることが多いので、結果的に「~た」と訳すことが多いのはたしかです。
しかし、過去の助動詞である「き」「けり」とは違って、完了の助動詞「ぬ」「つ」などは、根本的には「事態が成立する」という意味であって、時制には関係ありません。未来のことにつくことだってあります。
「ぬ」「つ」などを、過ぎ去ったことに使用する場合、「~にけり」「~てけり」といったように、後ろに過去の助動詞をつけることが多いですね。
こうやって、後ろに「過去の助動詞」をわざわざつけることからも、「完了の助動詞」は時制には関係ないことがわかります。
一方、「ぬ」「つ」などを、これから起こることに使用する場合、「なむ」「てむ」「ぬべし」「つべし」といったように、後ろに「意志」や「推量」の助動詞をつけることが多くなります。
じゃあ、
笑ひにけり
住みにけり
となっていれば、「笑った」「住んだ」と訳せばいいけど、
行きなむ
食ひなむ
となっていたら、これから起こることに使っているわけだから、「~た」とはいえないわけか。
そうです。
これからのことに使っているのだから、「~た」とは訳さずに、
行ってしまうだろう(行ってしまおう)
食べてしまうだろう(食べてしまおう)
と訳せばいいですね。
または、
きっと行くだろう(きっと行こう)
きっと食べるだろう(きっと食べよう)
というように、「きっと」を付ける考え方もあります。
どうしてかというと、この「完了の助動詞」を未来のことに使用している場合、ことばの作り手は「その現象が起こる可能性が高い」と思っているからです。
行かむ
食はむ
というよりも、
行きなむ
食ひなむ
と言うほうが、「もう絶対行こう!」「間違いなく食べるだろう!」といったように、「強い気持ち」で述べているケースが多いのですね。
「にんじん食はむ」
よりも、
「にんじん食ひなむ」
のほうが、「マジで食うぞ!」という感じになるのか。
そういうことです。
ただ、今回の問題の例文だと、単純に未来のことについて述べているわけではなくて、「こういうケースのときはこうするのがいいよ」という文脈だから、「きっと」をつけるのは少々なじまないですね。
かといって、「~てしまう」をつけてみても、
「ありなむ」だと、
「あってしまうだろう」
「あってしまおう」
という表現になります。
「あり」に「てしまう」をつけても、なんだか意味が通りにくいですね。
ここでの「あり」は、文脈的に、直前の発言をしている人物が「ある(存在している)」ということを言っているわけですから、少々意訳すると、
「そのままでいてしまおう」
というニュアンスになります。
文脈的には、ここでの「あり」は、「いろいろな動きをせずに、ただそこに存在するとよい」ということなので、選択肢問題ならば、「すましているのがよい」などと訳すかもしれません。
補足
なむ
古文の文中に「なむ」というひらがながある場合、次の4通りの可能性を考えます。
① 未然形についていれば「願望の終助詞」
② 連用形についていれば「確述用法」
③ 取ってみてもおかしくなければ「係助詞」
④ 「死なむ」「往なむ」「去なむ」ならば、「ナ変動詞+む」
「あり」というかたちは「連用形」か「終止形」なので、この「なむ」は連用形についている「確述用法」であると判断できます。
確述用法について
確述用法とは、「完了の助動詞」に、「推量・意志」の助動詞をつけることによって、
◆これからそれが完了することを推量している
◆これからそれを完了させる意志を持っている
を意味する表現です。
「~てしまう」という完了の助動詞に「だろう」「しよう」という意味がくっつきますので、
◆~てしまうだろう
◆~てしまおう
とニュアンスになります。
「完了」の意味が薄れて「強意」の意味になる
とか、
「完了」ではなく「確述」という
などと説明されることもありますが、もともと「完了」は時制とは関係なく、未来に対しても使用できるので、「完了」と答えても間違っているわけではありません。
とはいえ、古文に登場する「連用形+なむ」のかたち、たとえば、
討ちなむ
駆けなむ
渡りなむ
などといった表現は、たしかに、
討たむ
駆けむ
渡らむ
といった表現に比べて、「必ずそうしよう」「間違いなくそうなるだろう」「きっとそうしよう」「たしかにそうなるだろう」といった「強い感情」が込められているとみなせるケースがほとんどです。
そのため、たとえば、
討ち取りなむ
という表現を、「討ち取ってしまおう」と訳しても、「きっと(必ずや)討ち取ろう」と訳しても、どちらも文法的には正解なのですが、背景にある「強い気持ち」を考慮すると、「きっと~しよう(だろう)」と訳すほうが、試験においては無難な答え方になります。
にんじん食はむ。(にんじんを食べよう。)
にんじん食ひなむ。(きっとにんじんを食べよう。)
確述の助動詞について、より詳しい説明はこちらをどうぞ。