木の花は、~
木の花は、濃きも薄きも、紅梅。
桜は、花びら大きに、葉の色濃きが、枝細くて咲きたる。
藤の花は、しなひ長く、色濃く咲きたる、いとめでたし。
木の花は、濃いのでも薄いのでも紅梅(がよい)。
桜は、花びらが大きく、葉の色が濃いのが、枝は細くて咲いている(のがよい)。
藤の花は、花房が長く垂れ、色濃く咲いているのが、たいそうすばらしい。
四月のつごもり、~
四月のつごもり、五月のついたちの頃ほひ、橘の、葉の濃く青きに、花のいと白う咲きたるが、雨うち降りたるつとめてなどは、世になう心あるさまにをかし。花の中より、黄金の玉かと見えて、いみじうあざやかに見えたるなど、朝露にぬれたる朝ぼらけの桜に劣らず。郭公のよすがとさへ思へばにや、なほさらに言ふべうもあらず。
四月の月末、五月の最初の頃、橘の、葉が濃く青いものに、花がたいそう白く咲いているのが、雨が降った翌朝などは、世に類なく風情がある様子で美しい。花の中から、(橘の実が)黄金の玉かと見えて、たいそう際立って美しく見えているさまなどは、朝露に濡れている早朝の桜に劣らない。ほととぎすににゆかりの深い木だとまで思うからであろうか、やはり改めて言いようもない(ほどすばらしい)。
梨の花、~
梨の花、よにすさまじきものにて、近うもてなさず、はかなき文つけなどだにせず。愛敬後れたる人の顔などを見ては、たとひに言ふも、げに、葉の色よりはじめて、あはひなく見ゆるを、唐土には限りなきものにて、詩にも作る、なほさりともやうあらむと、せめて見れば、花びらの端に、をかしき匂ひこそ、心もとなうつきためれ。楊貴妃の、帝の御使ひに会ひて泣きける顔に似せて、「梨花一枝、春雨を帯びたり。」など言ひたるは、おぼろけならじと思ふに、なほいみじうめでたきことはたぐひあらじとおぼえたり。
梨の花は、実に興ざめするものであって、身近では鑑賞せず、(枝に)ちょっとした手紙をつけて贈ることさえしない。かわいげのない人の顔などを見ては、たとえに(梨の花をひきあいにして)言うのも、なるほど、葉の色からして、つまらなく見えるが、中国ではこの上もないものとして漢詩にも詠むのは、やはりそうとはいっても(賞美される)理由があるのだろうと、強いて(よいところを)見ると、花びらの端に、美しい色あいが、ほのかについているようだ。楊貴妃が、帝(=玄宗皇帝)の御使いに会って泣いたという顔にたとえて、「梨の花の一枝が、春の雨に濡れている。」などと言ったのは、並ひととおり(の美しさ)ではあるまいと思うにつけて、やはりたいそうすばらしいことは、比べるものがないだろうと思われた。
桐の木の花、~
桐の木の花、紫に咲きたるは、なほをかしきに、葉の広ごりざまぞ、うたてこちたけれど、異木どもとひとしう言ふべきにもあらず。唐土にことごとしき名つきたる鳥の、選りてこれにのみゐるらむ、いみじう心異なり。まいて、琴に作りて、さまざまなる音の出で来るなどは、をかしなど、世の常に言ふべくやはある。いみじうこそめでたけれ。
桐の花が、紫色に咲いているのは、やはり趣きがあることだが、葉の広がる様子は、異様で仰々しいが、別の木などと同じように言うべきではない。中国に仰々しい名がついている鳥【鳳凰】が、選んでこの木にだけとまるらしいのは、たいそう格別である。まして、(桐を)琴に作って、さまざまな音色が出てくることなどは、世の常【普通のこと】と言うことができるだろうか(いや、できない)。たいそうすばらしい(木だ)。
木のさま憎げなれど、~
木のさま憎げなれど、楝の花、いとをかし。枯れ枯れに、さま異に咲きて、必ず五月五日に合ふも、をかし。
木の様子はみっともないが、楝の花は、たいそう趣がある。枯れているように【乾いたように】、風変わりに咲いて、必ず五月五日に(「あふち」という名前のとおり)咲き合うのもおもしろい。