貴いところに入る
意味
謙譲語
(1)参上する
(2)参内する・入内する・出仕申し上げる
(3)参詣する・お参りする
(4)差し上げる・献上する
(5)(何かを)して差し上げる・お~申し上げる
(6)(御格子を)お上げする・お下げする
尊敬語
(7)召し上がる *「食ふ」「飲む」などの尊敬語
ポイント
古代に「参」という語があり、それが「貴い領域(神聖な領域)」にかかわることを示しました。上一段動詞であったと考えられており、そうであれば連用形は「まゐ」になります。
「まゐ入る」なら「貴い領域に入る」ということであり、「まゐ出づ」なら「貴い領域に出現する」ということになります。前者は「まゐる(参る)」で、後者は「まうづ(詣づ)」です。したがって、本動詞の意味はほとんど同じになります。
要するに「貴い領域に入る」ということなのに、それがどうして(4)(5)(6)みたいな「何かをしてあげる」ことになるの?
「下位の者」が「貴い領域/神聖な領域」に入る場合、ただ無意味に訪れることはありません。
「こんにちわ。ちょっと来ただけっス」などということは、まずありえないですよね。
まあそりゃそうだね。
「一般の人々」からすると、「帝のお部屋」とか「寺社」とかは、「いっしょにファミコンやろうよ」というレベルで遊びに行くところではないからね。
特に「お仕えする者」が貴人の部屋に参上するのであれば、食事を差し上げたり、部屋を掃除したり、本を読み聞かせたり、といったように、何らかの「世話」をしにくることがほとんどです。そのため、「参る」という表現には、その「奉仕活動」も含みこんでいる場合があります。
特に「お仕えする者」が「貴人」の部屋にすでにいて、そのうえで「参る」という表現が用いられている場合、その「参る」は、奉仕する行為それ自体を意味していることになります。
たとえば、「御格子参る」のかたちで、「御格子をお上げする/お下げする」と訳すようなケースですね。
他にもいくつかあるのですが、「何」をしているかを文脈で判断して、それがわかるように訳せるといいですね。
たとえば、
大御酒まゐる → お酒をお渡しする
御髪まゐる → おぐしをとかして差し上げる
といった具合です。
ああ~。
「行為」を「献上している」という感覚なんだろうね。
そこまではわかったけど、それが(7)みたいな「尊敬語」になるのはまったく理解できないぞ。
これはもう発想そのものを変えてほしいところなのですが、そもそも古文の世界観では、
「誰が」「誰に」「どうした」
という「人為的行為」について、「誰が」から始まる「ベクトル的な一方通行行為」としてはとらえていないところがあるんですね。
どういうことだ?
あらゆる行為は「場」に支配されていて、「場」の現象として成立する感覚があるんです。
「ある行為」は、その人単独の責任行為というよりは、「大いなる自然の力」とか「その場の人間関係」とか、何らかの「場の力学」によって発生するようなイメージです。
そのため、古文の「ことば」も、細かい前後関係の「流れ」を説明するというより、「出来事」を「シーン(scene)」として、いわば「場面」を「絵的」に想像できるように語っている性格が強いです。感覚としては「漫画のコマ」っぽい感じです。
形容詞などはその典型で、ある物体の状態や性質そのものを形容しているのか、それに接している人間の心情を示しているのか、明確に区別できないケースがかなりあるんです。
たとえば、「はづかし」という語などは、二者の関係において「片方が優れていて、もう片方が劣っていることを恥じている」ということを包括的に述べていることばです。そのため、「優れているほうを形容している」とみなすなら「立派だ」などと訳しますし、「それに接している人間の心情のほうを形容している」とみなすなら「気が引ける・気づまりだ」などと訳します。
ああ~。
たしかに、古文の描写の仕方は「漫画のコマ」っぽいイメージと考えると、そうかもしれないね。
たとえば、「野球のピッチャーが投げてキャッチャーが捕っている様子」を、「ボール渡る」なんて表現した場合、「投げたほう」に注目すれば主語は「ピッチャー」になるけど、「捕ったほう」に注目すれば主語は「キャッチャー」になるもんね。
「参る」という動詞も、根本的には
「下位の者が上位者のエリアに入ってきて、上位の者がそれを受け入れている」
という相互関係における「場の現象」を包括的に意味していることばなのですね。
実際にあれこれ行動しているのは「下位の者」が中心ですから、主に「謙譲語」として扱われますけれども、この「場」においては、「上位の者」も「受け入れている」という行為をしているといえます。
たとえば、「お仕えする者」が「貴人」に食事を差し出して、「貴人」がそれを食べているという「場」があるとしますね。それを「まゐる」と表現しているとします。
この場合、「お仕えする者」を主語とみなすなら「給仕申し上げる」という謙譲語になりますが、「貴人」の側を主語とみなすなら、「召し上がる」という行為を示す尊敬語ということになります。
ああ~。
「これはこの人の行為」「それはその人の行為」というように、「行為者」をバシッと決めて、そこを中心に語るというよりは、「複数の人間のあいだで発生している出来事(現象)」を「コマ」のように書いていると考えれば、「参る」を「召し上がる」と訳す場合もたしかにあるんだろうね。
そうですね。
とにかく古文では、「ある動詞」の主語を「これ」と決められないケースも数多くあります。ただし、もちろんですが、試験でそういうケースの主語を特定させる問題は出ません。
「まゐる」に関していえば、やがて「貴人自身の単独行為」なのに「参る」を用いるケースも出てきます。その際は迷わず「尊敬語」です。試験で問われるようなものは、そういった「確定できる場合」に限られると考えておいて大丈夫です。
例文
宮に初めて参りたるころ、物の恥づかしきことの数知らず、涙も落ちぬべければ、夜々参りて、三尺の御几帳のうしろに候ふに、(枕草子)
(訳)(中宮の)御所に初めて出仕申し上げたころ、何かと恥ずかしいことがたくさんあり、涙も落ちてしまいそうなので、(昼間ではなく)夜ごとに参上して、三尺の御几帳の後ろにお控え申し上げていると、
清少納言が中宮定子のところで働き始めたころの話です。
1つめの「参りたる」は、「参上した」と訳しても問題ありませんが、ただ単に来たわけではなく、働きに来たわけですので、「出仕申し上げる」などと訳すのが文脈には合います。
2つめの「参りて」は、「定子」のいるお部屋に入ることを意味していますので、シンプルに「参上して」でいいですね。
そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけむ。(徒然草)
(訳)それにしても、参詣している【お参りしている】人それぞれが山へ登ったのは、何事があったのだろうか。
掃部司参りて、御格子参る。(枕草子)
(訳)掃部司【清掃などをつかさどる役所の長官】が参上して、御格子をお上げする【上げ申し上げる。
1つめの「参りて」は、実際に「参上した」ということですね。
2つめの「参る」は、すでに参上しているわけですから、「参上する」と訳すと変になります。直前に「御格子」がありますので、「お上げする」または「お下げする」行為をしていることになります。
心地もまことに苦しければ、物もつゆばかり参らず、(源氏物語)
(訳)(大君は)気分も本当につらいので、食べ物も少しも召し上がらないで、
敬意の対象者である「大君」の行為に用いられていますので、尊敬語と判断し、「召し上がる」と訳します。
泉の大将、故左の大臣に詣でたまひけり。ほかにて酒などまゐり、酔ひて、夜いたく更けて、ゆくりもなくものしたまへり。
泉の大将【藤原定国】が、左大臣【藤原時平】の屋敷に参上なさった。よそで酒などお飲みになり、酔って、突然お訪ねになった。
敬意の対象者である「泉の大将」の行為に用いられていますので、尊敬語と判断し、「お飲みになる」と訳します。