和邇部用光といふ楽人ありけり。
「楽人」は「楽器を演奏する人」ということです。
土佐の御船遊びに下りて、上りけるに、
「土佐」は現在の高知県ですね。
「下る」とは「都から離れること」で、「上る」とは「都に近づく」ことです。
安芸の国、なにがしの泊にて、海賊押し寄せたりけり。
「安芸」は現在の広島県です。
「なにがし」は「某」と書きます。「何某」と書くこともあります。
詳細が分からないときや、わざと隠したいときに「なにがし」という表現を用います。
「安芸の国の、どこかの泊で、」「安芸の国の、とある泊で、」などと訳します。
そこで、海賊が襲撃してきたのですね。
弓矢の行方知らねば、防ぎ戦ふ力なくて、
「弓矢の行方がわからない」というのは、「自分自身の弓矢がどこへ飛んでいくかわからない」とも、「相手の弓矢がどこに飛んでくるかわからない」とも、どちらでも解釈できそうなところですが、どちらにしても、「弓矢の技量や知識に乏しい」ということになります。
「知らねば」の「ね」は、打消の助動詞「ず」の已然形です。
今はうたがひなく殺されなむずと思ひて、
最大のポイントは「むず」です。
これは、「むとす」がつまって出来上がった助動詞で、意味は「む」と同じになります。
推量 ~だろう
意志 ~しよう
のどちらかになることがほとんどです。他にもありますが、まずはこの2つを覚えておきましょう。
次のポイントは「な」です。
これは、完了を意味する助動詞「ぬ」の未然形です。
「ぬ」に「むず」がくっついて、「なむず」というかたちになっています。
「完了」の助動詞に「意志」「推量」の助動詞がつくと、
未来においてその現象が完了することを確信している
というニュアンスになります。
そのことから、「~た」と訳すことはなくなります。
~てしまおう。
~てしまうだろう。
と訳すこともありますが、多くの場合、
きっと~しよう
きっと~だろう
と訳すことになります。
たとえば、
花咲きぬ。
という表現は、
「花が咲いた。」
と訳すのですが、ここに「む」がついて、
花咲きなむ。
となると、
「花がきっと咲くだろう。」
と訳すことが多くなります。
このときの「な」に傍線が引かれて、「この助動詞の意味は何か?」と問う問題があるとします。
「ぬ」は、多くの場合「完了」なのですが、「~た」という訳ではなくて、「きっと」という訳に該当していることから、これを「強意」と考える立場があります。「確述・確認」ということもあります。
くわしくはこちら。
さきほど、「むず」という助動詞は「む」と同じ意味になるという話がありました。「意志」や「推量」です。
たとえば、
文やりぬ。(手紙を送った。)
という表現に「むず」がつくと、
文やりなむず。
という文になります。
「む」や「むず」がつくと、この現象がまだ起きていないことになりますから、「~た」と訳すとおかしくなるのですね。
そこで、
手紙をきっと送ろう。
と訳すことになります。
今回の本文にも、
殺されなむず。
という表現がありますが、ここでの「なむず」も同じ構造なので、
きっと殺されるだろう。
といったように、「きっと」を入れて訳すのが一般的です。
本文の隣には、
殺されてしまうだろう。
と訳されています。
これはどちらの訳でもOKですが、いずれにしても、「~た」というように、過去時制で訳すのはやめましょう。
どうしてここをこんなに力説しているかというと、「むず」の「ず」は「打消の助動詞ではない」ということを知ってもらうためです。
古文の読解は、「打消表現」を把握していないと意味が逆になってしまうので、注意が必要です。
逆に、「むず」の「ず」だけに意識が行ってしまい、打消表現だと勘違いしてしまうと、
走らむず (走ろう)
咲かむず (咲くだろう)
といった表現を、
走らない
咲かない
と誤訳してしまうことになります。
ちょっとした誤訳は問題ないのですが、「肯定」か「否定」かを逆に解釈してしまうと、まるで逆になってしまいます。
とにかく、「むず」というひらがながある場合、その「ず」は打消ではありません。「むず」で一語です。意味は「意志」または「推量」になります。
篳篥を取り出でて、屋形の上にゐて、
「篳篥(ひちりき)」は小さい縦笛です。
「屋形」は「屋形船」のことです。現在も墨田川などに行くと見ることができます。
「ゐ」は「ゐる」の連用形です。
「ゐる」は、「ただそこに存在している」のではなくて、「座っている」という意味です。
用光は、海賊に襲われている絶体絶命の状況で、小笛を取り出して、屋根の上にどかりと座ったのですね。
「あの党や。今は沙汰に及ばず。とくなにものをも取り給へ。
「党」は「集団」「一派」のことです。現在も「〇〇党」などと言いますね。
ここでは、目の前に迫った海賊集団に対し、呼びかけをしています。
「沙汰」は「処置」「処遇」のことです。現在でも「地獄の沙汰も金次第」とか「ぜひ慈悲のあるお沙汰をお願いします」などと言ったりします。
「沙汰に及ばず」という言い方は、よく出てくる表現です。
直訳すれば「処置をするまでもない」「処遇を考えるまでもない」ということなのですが、ニュアンスとしては、「何をどうしたって結果が変わることはない」「結論は決まり切っている」ということです。
ここでは、海賊に襲われようとしている場面なので、「今は覚悟を決めた」という意味内容ですね。
「とく」は、形容詞「疾し」の連用形です。「疾風(しっぷう)」の「疾」の漢字です。
その漢字のイメージ通り、「はやい」という意味です。
早くなんでもとりなされ。
と言っているのですね。
ただし、年ごろ、思ひしめたる篳篥の、小調子といふ曲、吹きて聞かせ申さむ。」といひければ、
「年ごろ」は「長年」「数年来」と訳します。
「聞かせ」の「せ」は「使役」の助動詞です。
「申さむ」の「む」は「意志」や「推量」の助動詞です。ここでは文脈上「意志」ですね。
長年心の中にあった篳篥の「小調子」という曲を吹いて聞かせ申し上げよう。
と提案しているのです。
宗との大きなる声にて、「主たち、しばし待ちたまへ。かくいふことなり。もの聞け」といひければ、
「宗(むね)」は「中心」とか「主要」といった意味です。
直訳すると「中心となる大きな声で」となりますが、かみくだいて意訳すると、「中心となる人物の大きな声で」といったところです。本文の隣には、「首領と思われる男」という注意書きがありますね。
「中心(的人物)」が、大きな声で「おまえたち、しばし待ちなされ。このように言うことだ。ものを聞け」と言ったのですね。
ここでのポイントは、「大きなる」と「いふことなり」の違いです。
「なり」とか「なる」というひらがなの直前に注目しましょう。
直前の部分が「状態・性質」を意味する語であれば、一語の「形容動詞」として扱います。
直前の部分が「単純な名詞」であれば、「体言+断定の助動詞」になります。
たとえば、
愚かなり
静かなり
豊かなり
あはれなり
などと言った語は、「愚か」「静か」「豊か」「あはれ」といった部分が、何かの状態や性質を形容しています。この場合、一語の形容動詞です。
一方、
駿河の山なり
八重の花なり
といった表現は、「山」「花」といった部分が「単なる名詞」です。この場合、「山」と「なり」は別々の単語扱いです。「花」と「なり」は別々の単語扱いです。「山」や「花」は「体言」であり、「なり」は断定の助動詞です。
形容動詞の場合、直前に「いと」をつけることができます。
いと愚かなり
いと静かなり
いと豊かなり
いとあはれなり
というようにできますね。
一方、
いと山なり
いと花なり
とすることはできません。「とても山である」というのは変ですね。
直前に「いと」をつけてもおかしくなければ一語の形容動詞と考えておきましょう。
船を押さへて、おのおのしづまりたるに、用光、今はかぎりとおぼえければ、涙を流して、めでたき音を吹き出でて、吹きすましたりけり。
接続助詞「に、」の後ろに、「用光」という人名が示されているところに注目しましょう。
そもそも、接続助詞「を」「に」「が」「ば」は、「何かが変わる目印」と考えられています。
たとえば、
かなしと思へ ば、 退きにけり。
であれば、「ば」を目印に、「思い」から「行動」に変化しています。
(主人が)問ひたまふ に、 (従者が)「~」と申す。
であれば、「に」を目印に、行為主が変化しています。
まとめると、次のように言えます。
①接続助詞「を」「に」「が」「ば」は、「何か」が変わる目印である。
②「何か」は多くの場合「行為主」である。
③前後で「行為主」が変わらない場合は、「他の何か」が変化している。
④「他の何か」は、概ね以下のとおり。
(a)心情 ⇒ 行為
(b)行為 ⇒ 心情
(c)原因 ⇒ 結果
(d)場所x ⇒ 場所y (部屋 ⇒ 庭)
(e)時間x ⇒ 時間y (朝 ⇒ 夜)
以上のように、「何か」が変わると考えておきましょう。
②に書いたように、多くの場合、変わるのは「行為主」です。
特に、「をにがば」の直後に「人名」「役職名」が書かれているときは、「行為主」が変化しています。「行為主」が変わらないのであれば、わざわざそこに書く必要はないからです。
もうひとつ、「て」の前後の行為主は同じということもおさえておきましょう。
特殊な例外もありますが、90%くらい変わりません。
船を押さへて、おのおのしづまりたるに、用光、今はかぎりとおぼえければ、
という箇所であれば、「船を押さえた人々」と「おのおのしづまった人々」は同じです。ここでは海賊たちですね。
用光、今はかぎりとおぼえければ、涙を流して、
という箇所では、「ば」の前後で行為主は変わっていません。
用光が、「今が最後だ」と思ったので、涙を流して、~
というように、同じ「用光」の行為です。
ただし、「ば」の前後では「何かが変わる」のでしたね。
ここでは、「心情」から「行為」の変化があります。「原因」から「結果」の変化とも言えます。
「めでたき音」の「めでたき」は、形容詞「めでたし」の連体形です。
古文では最高水準の誉め言葉です。
記述問題として問われたら、「すばらしい」と訳しておけば問題ありません。
選択肢問題であれば、文脈に応じて「すばらしい」に近い表現を選びましょう。
「見事だ」「立派だ」などは〇です。
「吹きすます」の「すます」は「澄ます」という動詞です。
今でも「耳を澄ます」という場合に使いますね。
「集中する」「心をこめる」という意味ですが、「現代語訳せよ」という問題になっていなければ、あんまり気にする必要はありません。
もしも、「吹きすましたりけり」に傍線が引かれ、「現代語訳せよ」と問われるのであれば、「心をこめて吹いた」などと訳せばOKです。
をりからにや、その調べ、波の上にひびきて、かの潯陽江のほとりに、琵琶を聞きし昔語りにことならず。海賊、静まりて、いふことなし。
「をり」は「折」で、「時」「時節」のことです。
海は、波が静かな時間がありますから、ちょうどそういった「いいタイミング」に当たったのでしょう。篳篥の音色が波の上に響きわたったのですね。
「をりからにや」という表現は、「時がちょうどよかったのか」といったニュアンスで、古文ではよく登場する言い回しです。
潯陽江というのは、江西省北部を流れる揚子江の別名です。問題文の注意書きには、詩人白居易が琵琶の音に感動して詩作したということが書いてあります。
白居易の詩に、「酒を飲もうとしたときに、管絃の曲がないので、テンションがあがらずに帰ろうとするが、そのとき水の上をわたるように琵琶の音が響いて、感動して、酒を飲み始めた」というものがあります。
その逸話と同じように、用光の笛の音が、波の上に響いたということです。
「ことならず」というところに注目しましょう。
これは「異なり」という形容動詞に「ず」がついたものです。
現代語では「異なる」という動詞がありますけれども、古文の世界にはありません。古文では「異なり」という形容動詞なのです。
「異ならず」で、「違っていない」「別でない」と訳します。
よくよく聞きて、曲終わりて、先の声にて、「君が船に心をかけて、寄せたりつれども、曲の声に涙落ちて、かたさりぬ」とて、漕ぎ去りぬ。
「かたさる」という動詞は「片去る」と書きます。「片側に行く(中央を避ける)」というニュアンスで、「遠慮する」という意味になります。
「あなたの船に心を決めて、海賊船を寄せたけれども、曲の音色に涙がこぼれて、(襲うのを)遠慮することにした」ということですね。
「かたさりぬ」の「ぬ」も、
「漕ぎ去りぬ」の「ぬ」も、
「完了」の助動詞「ぬ」の終止形です。
普通の使い方の場合、「ぬ」は「~た」と訳しておけばよいです。
「ぬ」の直後に「推量・意志」の助動詞が直結する場合は、「~た」という訳し方はしなくなりますが、直後が「。」の場合は、迷わず「~た」としておけばよいですね。