梶原源太景季についてはこちら。
ころは睦月二十日あまりのことなれば、~
ころは睦月二十日あまりのことなれば、比良の高嶺、志賀の山、昔ながらの雪も消え、谷々の氷うち解けて、水はをりふし増さりたり、白浪おびたたしうみなぎり落ち、瀬枕大きに滝鳴つて、さかまく水も速かりけり。夜はすでにほのぼのと明けゆけど、川霧深く立ちこめて、馬の毛も鎧の毛も定かならず。
時は(陰暦)1月20日過ぎのことなので、比良の高嶺、志賀の山、昔ながらの雪も消え、谷々の氷も解けて、(宇治川の)水位はその時増していた。白波がはなはだしくみなぎり落ち、瀬枕(水しぶきのたまりば)は大きく滝のように鳴って、逆巻く水も速かった。夜はもはやほのぼのと明けてゆくが、川霧が深く立ち込めて、馬の毛も鎧の毛もはっきりしない。
ここに大将軍九郎御曹司、川の端に進み出いで、水のおもてを見渡して、人々の心を見むとや思はれけむ、「いかがせむ、淀、一口へや回るべき、水の落ち足をや待つべき。」とのたまへば、畠山、そのころはいまだ生年二十一になりけるが、進み出でて申しけるは、
ここに、大将軍九郎御曹司(源義経)が、川の端に進み出て、水面を見渡して、(周囲の)者の心を見ようと思われたのだろうか、「どうしようか、淀(のほう)、一口(のほう)へ回るのがよいか、水量が落ちるのを待つのがよいか。」とおっしゃったところ、畠山、そのころはまだ21歳であったが、進み出て申し上げたことには、
義経たちのいるところは、平等院のあたりで、「よど」や「いもあらい」は、それよりも西にいった、現在の京都競馬場のほうです。
「鎌倉にてよくよくこの川の御沙汰は候ひしぞかし。~
「鎌倉にてよくよくこの川の御沙汰は候ひしぞかし。知ろしめさぬ海川の、にはかにできても候はばこそ。この川は近江の湖の末なれば、待つとも待つとも水干まじ。橋をばまたたれか渡いてまゐらすべき。治承の合戦に、足利又太郎忠綱は鬼神で渡しけるか。重忠瀬踏みつかまつらむ。」とて、丹の党をむねとして、五百余騎ひしひしと轡を並ぶるところに、平等院の丑寅、橘の小島が崎より、武者二騎ひつ駆けひつ駆け出で来たり。
「鎌倉でよくよくこの川の御評価はございましたよ。ご存知でない海や川が、突然できたのでしたら仕方がありませんが(そうではございません)。この川は近江の湖の出口なので、待てども待てども水は干上がるまい。橋をまた誰が架けて差し上げられようか、いやできないだろう。治承の合戦の際、足利又太郎忠綱は、鬼神であったから渡ったのか。重忠が瀬踏みをいたしましょう。」といって、丹の党を中心として、五百余騎がひしひしとくつばみ(馬の口に取り付けて手綱たづなをつける馬具)を並べているところに、平等院の北東、橘の小島が崎から、武者二騎がはげしく馬を走らせて出てきた。
一騎は梶原源太景季、~
一騎は梶原源太景季、一騎は佐々木四郎高綱なり。人目には何とも見えざりけれども、内々は先に心をかけたりければ、梶原は佐々木に一段ばかりぞ進んだる。
一騎は梶原源太景季、一騎は佐々木四郎高綱。人目にはなんとも見えないが、内心としては先陣をきろうと思っていたので、梶原は佐々木よりも一段(約11m)ばかり進んでいる。
佐々木四郎、~
佐々木四郎、「この川は西国一の大河ぞや。腹帯の伸びて見えさうは。締めたまへ。」と言はれて、梶原さもあるらむとや思ひけむ、左右の鐙を踏みすかし、手綱を馬の結髪に捨て、腹帯を解いてぞ締めたりける。その間に佐々木はつつと馳せ抜いて、川へざつとぞうち入れたる。梶原、たばかられぬとや思ひけむ、やがて続いてうち入れたり。
佐々木四郎が、「この川は西国一大河だぞ。【馬の】腹帯が伸びて見えます。お締めになれ。」と言われたので、梶原はそういうこともあるのだろう思ったのだろうか、左右の鐙を開いて(馬の腹から)離し、手綱を馬のたてがみに投げかけ、腹帯をほどいて締めた。その間に佐々木はつっと駆け抜けて、川へざっと入っていった。梶原は、だまされたと思ったのだろうか、そのまま続いて(川に)入っていった。
「いかに佐々木殿、~
「いかに佐々木殿、高名せうどて不覚したまふな。水の底には大綱あるらむ。」と言ひければ、佐々木太刀を抜き、馬の足にかかりける大綱どもをば、ふつふつと打ち切り打ち切り、生食といふ世一の馬には乗つたりけり、宇治川速しといへども、一文字にざつと渡いて、向かへの岸にうち上がる。梶原が乗つたりける摺墨は、川中より篦撓形に押しなされて、はるかの下よりうち上げたり。
「やあ佐々木殿、手柄を立て評判を上げようとして油断をしなさるな。水の底に大網があるだろう。」と(梶原が)言ったところ、佐々木は太刀を抜いて、馬の足にかかっていた大網を、ふっふっと打ち切り打ち切り、生食という世の中で一番の馬に乗っていたし、宇治川の流れが速いといっても、一文字にざっと渡って、向こう岸に上がる。梶原が乗っていた摺墨は、川の中ほどから弓を曲げたような格好で押し流されて、はるか下流から岸に上がった。
佐々木、鐙踏んばり立ち上がり、~
佐々木、鐙踏んばり立ち上がり、大音声をあげて名のりけるは、「宇多天皇より九代の後胤、佐々木三郎秀義が四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣ぞや。われと思はん人々は高綱に組めや。」とて、をめいて駆く。
佐々木が、鐙に踏ん張って立ち上がり、大声をあげて名乗ったことには、「宇多天皇から九代の末裔、佐々木三郎秀義の四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣だ。我(こそ相手になる)と思う人々は高綱と勝負だ。」と言って、叫んで駆ける。
畠山、五百余騎で、~
畠山、五百余騎で、やがて渡す。向かへの岸より山田次郎が放つ矢に、畠山、馬の額を篦深に射させて、弱れば、川中より弓杖を突いて降り立つたり。岩浪、甲の手先へざつと押し上げけれども、ことともせず、水の底をくぐつて、向かへの岸へぞ着きにける。上がらむとすれば、後ろに物こそむずと控へたれ。
畠山は五百余騎で続いて渡る。向かいの岸から山田次郎が放つ矢に、畠山、馬の額を深く射られて、(馬が)弱ったので、川中から弓を杖にして突いて馬から降り立った。岩の間の流れが甲の手前にざっと押し上がったが、畠山はものともせず、川の底をくぐって、向かいの岸に着いた。(岸に)上がろうとすると、後ろに何者かがむずとしがみついている。
「誰そ。」と問へば、~
「誰そ。」と問へば、「重親。」と答ふ。「いかに大串か。」「さん候らふ。」大串次郎は畠山には烏帽子子にてぞありける。
「誰だ。」と問うと、「重親。」と答える。「なんと大串か。」「そうでございます。」大串次郎は、畠山にとっては烏帽子子であった。
「あまりに水が速うて、~
「あまりに水が速うて、馬は押し流され候ひぬ。力及ばでつきまゐらせて候ふ。」と言ひければ、「いつもわ殿ばらは、重忠がやうなる者にこそ助けられむずれ。」と言ふままに、大串を引つ下げて、岸の上へぞ投げ上げたる。
(大串が)「あまりにも水が速いので、馬は押し流されてました。力が及ばず(畠山の背中に)付き申し上げます。」と言ったところ、(畠山は)「いつもお前たちは、重忠のような者に助けられるのだろう。」と言うままに、大串を引き下げて、岸の上に投げ上げた。
投げ上げられ、~
投げ上げられ、ただ直つて、「武蔵の国の住人、大串次郎重親、宇治川の先陣ぞや。」とぞ名のつたる。敵も味方もこれを聞いて、一度にどつとぞ笑ひける。
(大串は)投げ上げられ、姿勢を直して、「武蔵の国の住人、大串次郎重親、宇治川の先陣だぞ。」と名乗った。敵も味方もこれを聞いて、一度にどっと笑った。
周囲の人々からしてみると、「そもそも佐々木高綱が先に渡ってるし、おまえは自力で渡ってないだろ!」という気持ちだったでしょうね。