わびぬれば いまはたおなじ なにはなる みをつくしても あはむとぞおもふ
和歌 (百人一首20)
わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ
元良親王 『後撰和歌集』
歌意
(二人の仲が知られてしまい)悩み苦しんでしまったので、今となっては(何があっても)もう同じことだ。難波にある澪標ではないが、身を尽くしても【わが身が果てても】逢おうと思う。
作者
作者は「元良親王」です。お父さんは陽成天皇です。
『大和物語』や『今昔物語集』に風流人としての逸話が残っています。また『徒然草』には、「元日の奏賀の声、甚だ殊勝にして、大極殿より鳥羽の作道まで聞えけるよし」とありますので、よく通る美しい声の持ち主だったようですね。
そりゃあモテそうだね。
この歌は、『後撰和歌集』の「詞書」に、「事出て来てのちに、京極御息所につかはしける」とあります。
「事出て来て」というのは、「京極御息所」とひそかに逢引きしていたことがばれてしまったということです。それにもかかわらず「京極御息所」に歌を詠んで送ったのですね。
なんと!
「京極御息所」は、「藤原時平」の娘である「褒子」のことで、彼女は宇多天皇の后です。
そればかりか、「元良親王」のおばあさん(藤原高子)のお兄さん(藤原基経)の息子(藤原時平)の娘が「褒子」ですから、二人は藤原家の親戚筋になります。
その二人の密会が「事出て来て」となれば、わりと多くの人が天皇に怒られる状態になりかねないですね。
そりゃあ、周囲は何が何でも二人を引き離すよね。
ポイント
わびぬれば
動詞「わぶ」+助動詞「ぬ」+接続助詞「ば」です。
「わぶ」は「気落ちする・悩む・嘆く」という意味です。
「ば」は「ぬ」の已然形「ぬれ」についていますので、確定条件として訳します。
「(二人の仲が露見してしまい)悩み苦しんでしまったので」という訳になりますね。
今はた同じ (二句切れ)
「はた」は副詞です。
「また」「やはり」などと訳します。
ここでは、「今さら(どうなっても)また同じことだ」と解釈できます。
「苦しいのは結局同じだ」と言っているのですね。
難波なる
「難波」は、現在の大阪市周辺です。
「なる」は、「存在」の助動詞「なり」の連体形です。
「難波にある澪標」という意味になります。
みをつくしても
「みをつくし」は、「澪標」と「身を尽くし」の「掛詞」です。
「澪標」というのは、船の航行の目印に立てられた杭のことです。
「澪」とは、水深がやや深く、航行可能なところとされます。大阪の湾は、河口からの土砂の堆積によって航行できない場所が多いので、「座礁の可能性がある場所」と「澪」との境界に「澪標」を並べて設置して、航路を示しました。
難波潟の「澪標」はシンボル的な存在だったので、いまでも大阪市の市章は「澪標」のマークです。
ああ~。
なんか棒の先に逆三角形があるみたいなマークだよね。
ええ。
逆三角形が突き抜けたようなマークですね。
その「澪標」と「身を尽くし」が掛けられているわけですが、「尽くす」は「出し尽くす」「出しきる」ということから、「終わりにする」という意味があります。
ここでも、「自分の生命を出し切って終わりにしたとしても」という意味合いで使用されています。
逢はむとぞ思ふ
「む」は「意志」の助動詞です。
係助詞「ぞ」がありますので、結びの「思ふ」は「連体形」になっています。
「みんなにどうせバレちゃった今となっては、苦しいのは同じだから、澪標ってわけじゃないけど、身を尽くしても(命が終わりになるとしても)会いたい!」って歌なんだな。
なんか、ちょっと開き直ってる感じの歌だね。
うん・・・、けっこう、開き直っているよね・・・。
まあ、関係者からすると、いい加減にしろってところでしょうね。