我が庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人は言ふなり (喜撰法師)

わがいほは みやこのたつみ しかぞすむ よをうぢやまと ひとはいふなり

和歌 (百人一首8)

我がいほは 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人は言ふなり

喜撰法師 『古今和歌集』

歌意

私の庵は、都の東南にあって、このように心穏やかに住んでいる。(しかし)世を憂いて隠れ住んでいる宇治山だと、人は言うようだ。

作者

作者は「喜撰法師」です。六歌仙の一人です。

『古今和歌集』の「仮名序」に、「詠める歌、多く聞こえねば」と書かれており、この一首が入っているだけなので、紀貫之の時代には、すでに歌があまり残っていなかったようです。

他には、『玉葉和歌集』に、次の歌が入っています。

木の間より見ゆるは谷の蛍かもいさりに海人の海へ行くかも

(木々の間から見える光は谷を飛ぶ蛍かなあ。漁のため漁師が海へ行く漁火かなあ。)

現在、喜撰法師の歌として伝わっているのはこの二首だけです。

ポイント

我が庵は

「庵(いほ)」は、もともとは農作業などのためにつくられた仮小屋のことです。

天智天皇の「秋の田のかりほの庵」の「庵」は、それだもんね。

やがて、僧や世捨て人などが住む簡素な仮住まいのことも、「庵」というようになりました。

自分が住んでいるところに対して、「簡素な仮住まい」と称したのですね。

この歌での「庵」は、この「隠遁者の簡素な住居」を指しています。

都のたつみ

「都」は、「平安京」のことです。

「たつみ」は「辰巳」であり、「東南」の方角を示します。

当時は、「時刻」や「方角」を示すのに、「十二支」を用いました。

下図のように、「子=北」「卯=東」「午=南」「酉=西」になります。

「辰巳」は、「卯」と「午」のあいだにあるので、「東南」を示しています。

      子
    亥   丑 
  戌       寅
酉           卯
  申       辰
    未   巳
      午

この地図でいうと、京都(平安京)の辰巳(東南)に「宇治」があります。

京の貴族たちの別荘地として人気の地で、有名人としては源とおるの別邸がありました。のちに帝の別邸となり、藤原道長の手に渡ります。その子藤原頼通の代に寺院にして、「平等院」と称したのですね。

位置的には今の平等院の東側に「喜撰山」があるので、喜撰法師はそのあたりの山に隠れ住んでいたのでしょうね。

この地図でいうと、右のほう(平等院から見て東側)にある湖みたいなやつが「喜撰山ダム」です。

しかぞ住む (三句切れ)

「しか」は指示語で、「このように住んでいる」ということです。

「辰」「巳」と「生き物」が続いているので、これに「鹿」の意味が重ねられていると解釈する説もあります。

どんなふうに住んでいるのか、歌のなかには書かれていないのですが、下の句から解釈すると、「心のどかに暮らしている」といった内容だと考えられます。

世をうぢ山と (掛詞)

「うぢ」は「宇治」ですが、「憂し」の「憂」が掛けられています。

掛詞だね!

「辰」「巳」「鹿」ときているので、ここに「卯」の意味を読み取る人もいます。

生き物のオンパレードじゃないか!

そこまで読み取るのは深読みという考え方が主流ですが、喜撰法師の他の歌がほとんどないので、どんな「くせ」があるのかわからず、真偽は不明です。

人は言ふなり

「なり」は「伝聞」の助動詞「なり」です。

助動詞「なり」は、「体言 or 活用語の連体形」についていれば「断定」ですが、「終止形(ラ変型は連体形)」についていれば「伝聞・推定」です。

「言ふ」は、終止形と連体形の区別がないので、接続からはどちらの助動詞かわかりません。

ただ、文脈から考えて、「人」は「世間の人々」ということになりますから、唯一で特別な現象を「である」と断じているわけではありません。

「世間の人々がそのようにうわさしていることが耳に届いてくる」ということになりますから、「伝聞」と考え、「世の人は言うようだ」などと訳すのがいいですね。

ああ~。

そうすると、「人は言ふ」の「は」は、「区別」を意味するわけだから、世間の人つらい(憂)山と言っているけれど、自分そう思っていないよ、と解釈できるわけだな。

はい。

そこから考えて、「しかぞすむ」のところを、「このように心おだやかに住んでいる」などと解釈します。

軽やかに詠んでいるように見えて、ことばの一つ一つに繊細さがある歌です。

こりゃあ、六歌仙だわ!