野性的で繊細さがない
意味
(1)どっしりしている・しっかりしている
(2)不格好だ・やぼったい・ごつい
(3)洗練されていない・品がない・不器用だ
(4)思慮が浅い・ぶしつけだ・軽率だ *中世以降の用法
ポイント
「太(ふと)」が音変化した「ふつ」を重ねた「ふつふつ」に接尾語の「か」がついた「ふつふつか」が圧縮されて「ふつつか」となったものか、あるいは、「太束(ふとつか)」が音変化したものと言われています。
「太い×2」か「太い束」だから、どっちにしても「とても太っている」ということになるね。
そうですね。
もともとはそのように「どっしり、しっかりしていて、野性的であるさま」を意味していました。
ただ、平安時代は、「繊細な美」をよしとする風潮がありましたから、「ごつくて野性的であるもの」は「野暮ったくて品がない」とみなされ、「不格好だ」というマイナスイメージで使用されることが多かったようです。
やがて、「繊細さが足りない」というイメージで「不器用だ」という意味で用いたり、「大雑把で雑」なイメージで「思慮が浅い」という意味で用いたりして、だんだん現在の用い方に近づいていきました。
ああ~。
「太くてしっかりしているもの」って、人物像でいうと「東国武士」っぽいイメージがあって、そのイメージに当てはめると、たしかに「不器用」で「軽率」な感じがするよね。
そうですね・・・
本当は「どっしりしていて、かつ繊細で器用な人」もいるはずですが、何となくのイメージでは、「どっしりしている=細かいことは気にしない(不器用/無遠慮)」という感じがしてしまいますね。
現代語で「ふつつか者ですが・・・」というのも、「不器用で軽率な者ですが・・・」という意味なんだね。
でも、もともとは「太太」または「太束」なのに、「不束」って漢字を当てるのは、なんだか意味が食い違っている気がするよね。
当て字なので深い意味はないのかもしれませんが、前述したような経緯で「繊細さがない」「深い思慮がない」という使い方が主流になっていったことから、「ない」のニュアンスが強まって、「不」の字を当てるようになっていったのかもしれませんね。
ただ、これは完全に私見の推測です。間違っていたら申し訳ありません。
経緯をご存じの方がいらっしゃいましたらご教示ください。
例文
頼もしげなく、頸細しとて、ふつつかなる後ろ見まうけて、かくあなづりたまふなめり。(源氏物語)
(訳)(私【源氏】は)頼りになりそうになく、首が細い【存在が華奢である】として、(空蝉は)しっかりした後見人【夫=伊予介】を用意して、このように(私を)ばかにしていらっしゃるようだ。
「頸細し」は、頼りないことの比喩表現です。
「ふつつかなり」のここでの訳し方は「しっかりした・どっしりした」というものでOKですが、文脈としてはこの「後見人」の存在を否定的に述べているようなところです。
ちなみに「伊予介」は、「老齢で生真面目な男」であり、そういう点で「優美さ・繊細さ」は「源氏」から見れば劣っている存在です。
したがって、表現上は「しっかりした・どっしりした」と言っていても、言いたいことの内実は、「不格好でやぼったい」と皮肉を言っているようなものですので、選択肢問題などでは「しっかりしているが野暮ったい後ろ盾」など訳される可能性もあります。
布衣のふつつかなるを着て、下には紙衣を着たり。(今昔物語集)
(訳)布衣のごつくて不格好なものを着て、下には紙衣を着ていた。
最初の例文もそうでしたが、ただ「どっしりしている」というだけではなく、「繊細な優美さがなくて不格好だ」という否定的な意味を込めて使われることが多いです。
竹の中に家鳩といふ鳥のふつつかに鳴くを聞きたまひて、(源氏物語)
(訳)竹の中に家鳩という鳥が不器用に【不格好な声で】鳴くのをお聞きになって、
「ふつつかなり」のもともとの意味から考えると、「野太い声」で鳴いているのだと考えられます。
「美しい鳥の鳴き声」というのは、一般的に「高音で清々しい声」ですから、「ふつつかに鳴く」というのは、鳥の鳴き方としては「不格好・不器用」ということになります。
不幸に愁へに沈める人の、頭おろしなど、ふつつかに思ひとりたるにはあらで、(徒然草)
(訳)不幸に対して悲しみに沈んでいる人が、髪をそって出家するなどのように、軽率に【思慮が浅く】決心したのではなくて、
中世以降は、「太い」という根本的な意味が、表面的にも出てこず、「(野暮であるがゆえに)思慮が浅い・軽率だ」という意味で用いることが多くなりました。