すずろなるめを見ることと思ふに、修行者会ひたり。(伊勢物語)

〈問〉次の傍線部を現代語訳せよ。

ゆきゆきて駿河するがの国にいたりぬ。宇津の山にいたりて、わが入らむとする道は、いと暗う細きに、つた、かへでは茂り、もの心細く、すずろなるめを見ることと思ふに、修行者すぎやうざ会ひたり

伊勢物語

現代語訳

進んで行って駿河の国に到着した。宇津の山に着いて、自分が入ろうとする道は、たいそう暗く細いところに、蔦やかえでが茂り、もの心細く、思いがけない(つらい)にあうことだとと思っていると、向こうからやって来た修行者が(一行と)出会った

ポイント

すずろなり 形容動詞

「すずろなり」は、細かく分けると次のような意味があります。

①なんということもない・わけもない
②趣きがない・思慮がない
③無関係だ・筋違いだ
④思いがけない・予想外である
⑤むやみやたらに・しきりに

多すぎるぞ!

いきなり全部おぼえるのは大変ですが、「コア」な部分を知っておいてほしいです。

「すずろなり」は漢字で書くと「すずろなり」となります。「漫」は「散漫」「冗漫」「漫然」などの熟語に使用しますね。

なんかこう、「カチッときちんとしていなくて、ゆる~く広がっている感じ」なのかな。

「ガチガチ」の逆だと考えておけばいいですね。

「ガチガチの計画」とは逆の意味合いで、「想定外」「予定外」「思いがけない」などと訳すことがあります。

この例文はその意味が当てはまりますね。

「すずろなる目」が「思いがけない目」であることはわかったけど、(つらい)はどっからきたんだ。

これは直前に、「道が暗くて細い」とか「心細い」とか書いてあるので、そのことから、「思いがけなく楽しかった」わけではないことが推測できます。

単純に「思いがけない目にあう」でも大丈夫ですが、選択肢問題などでは、状況から考えて「予想外のつらい目にあう」などと訳すことも多いところですね。

「修行者会ひたり」は、「男が(一行が)修行者会った」じゃないの?

「修行者が会った」とする理由がふたつあります。

ひとつめの理由です。

助詞の「に」というのは、古文でも普通書かれているんですね。

つまり、「に」が省略されるということはまず起きないんです。

ほほう。

現代語訳で、古文に書かれていない「に」を補うことはほとんどない、ということだな。

そうです。

ただ、「〇〇に」というセットがまるごと省略されていることはあります。

つまり、対象となる事物ごと書かれていないということです。

たとえば、

男、(女に)問へば、~

のように、「女に」がまるごと書かれていないということはたくさんあります。

けれど、こういった表現において、

男、女問へば、~

というように、「に」だけ抜けているということはありません

したがって、現代語訳において、「に」だけ付け足すという作業をすることは基本的にありません。

ああ~。

たしかに、「〇〇に」がまるごと書かれていないことはけっこうあるな。

でも、「に」だけないという可能性は、あんまり考えなくていいんだな。

もうひとつの理由は、ここでの動詞が「会ふ」であるからです。

「会ふ」という動詞は、「ふたつのものがぴったりする」ということなので、たいていの場合、「何か何か会う」のではなく、「何か何か会う」という意味になります。どちらからも歩み寄るイメージです。

ですから、ここでは、「男(一行)と修行者会った」というように考えたほうがいいのですね。

他にもこんな例文もある。

孔子、道を行きたまふに、八つばかりなる童あひぬ。

現代語の感覚ですと、

「孔子が道をお行きになると、八歳ほどの子ども会った。」

と訳したくなるのですが、これもさきほどの例文と同じように、

「孔子が道をお行きになると、(孔子と)八歳ほどの子ども会った。」

というように、「に」ではなく「が」を補ったほうがよいです。