謙譲語Ⅱ(丁重語)について

辞書によっては「謙譲語Ⅱ」っていうのが登場するんだけど、あれはいったい何なの?

「謙譲語Ⅱ」は別名「丁重語」とも言いまして、ちょっと特殊な用法になる謙譲語です。「荘重体敬語」とか「聞き手尊敬」などということもあります。

ひとことで言うと、

「行為を丁重な表現(かしこまり・へりくだりの表現)であらわすことで、ことばの聞き手(読み手)に失礼がないようにする敬語」

というイメージです。

??

本来の「謙譲語」は、「行為の受け手(客体)」への敬意を示すものだよね。

「謙譲語Ⅱ」は、「聞き手・読み手」に失礼がないようにするための表現になるの?

会話のなかで使用される謙譲語というのは、「行為の受け手」と「発言の聞き手」が「同じ」であることもたくさんありますから、判然と区別しにくい例が多いのですが、「謙譲語Ⅱ」は、「ことばの届け先に失礼がないように使用されている」ケースが多くなります。

でも、「聞き手や読み手に対する敬意」を示すのは「丁寧語」の役割じゃないの?

そうですね・・・。

そのため、「謙譲語Ⅱ」という分類をせずに、「丁寧語」に分類する考え方もあります。

ほうほう。

学校の文法書でいうと、敬語の区別はひとまず次の3つですね。

尊敬語 主体(行為者)への敬意
謙譲語 客体(行為の対象)への敬意
丁寧語 発言の相手(文書の読み手)への敬意

そうそう。

これについてもう少し細かく言うと、敬語の世界では、「話題にしている登場人物への敬意」を示すものを「素材敬語」とし、「話している相手」や「文書の読み手」への敬意を示すものを「対者敬語」として分けることがあります。

その観点でいうと、「尊敬語」「謙譲語」「素材敬語」で、「丁寧語」「対者敬語」ということになりますね。

ああ~。

そうなるね。

ところが前述したように、この「謙譲語」の用法において「話し相手への敬意」に用いられているようなものが時々出てくるんです。

そのように、本来は「素材敬語」であるはずものが、「対者敬語」として用いられている場合、それを「謙譲語Ⅱ」と呼ぶことがある、ということですね。

それをふまえて分類すると、次のようになります。

〈素材敬語〉話題に出している登場人物に対する敬意を示す
 尊敬語 主体(行為者)への敬意を示す
 謙譲語Ⅰ 客体(行為の対象)への敬意を示す

〈対者敬語〉ことばを届ける相手への敬意を示す
 謙譲語Ⅱ(丁重語) 構造的に聞き手・読み手への敬意になる
 丁寧語 聞き手・読み手への敬意

「謙譲語」というのは根本的には「格上に献上する行為」を意味します。したがって、通常は「行為の対象」が「敬意の対象」になります。これが「謙譲語Ⅰ」ですね。

ところが、たとえば「申す」「まゐる」「まかる」「つかうまつる」などの謙譲語は、次のようなケースがしばしばあります。

(1)行為の受け手が「不在・不特定」である
(2)行為の受け手が「敬意を示すような存在」ではない

こういう場合に使用されている「申す」「まゐる」「まかる」「つかうまつる」などは、「格上に行為を献上する表現」とはいいがたいですし、それゆえ「客体(行為の受け手)への敬意を示している」とはいいがたいものです。

こういうときに用いられている謙譲語は、「客体(行為の対象)に向かう・・・敬意」というよりも、「行為の表現をつつましく控えめにする」ことで、「表現そのものに失礼がないように用いられている」ような使用法なんですね。

 

例がないとわかりづらいね。

たとえば、現代語でいうと、「これから、土手まで散歩に参る」といったとします。

この場合、「参る」という行為の「客体(対象)」は「土手」になりますけど、「土手」に敬意を示しているとはいいがたいですよね。

ああ~。

たしかに、「行く」という行為を丁重に表現することで、「表現そのもの」に失礼がないようにしているイメージだね。

このケースのように、「客体(行為の対象)への敬意を示しているとはいえない謙譲語」は、一般的な謙譲語とは違って、「行為の表現を丁重にする(かしこまり・へりくだりの表現にする)」ことで、「話し相手に対して失礼な言い方にならないように配慮している」ようなものなのですね。

そのため、関係的には「敬意の対象」は「話し相手」になります。

ああ~。

そうすると、「3番線に新木場行き快速電車が参ります」とか言うのも「謙譲語Ⅱ」と言えるね。

そうですね!

このときの「新木場行き快速電車」は、特定の誰かのもとを目指して来ているわけではないので、「行為の対象」が不在になります。あえていえば「この駅のホーム」あるいは「新木場」ですけど、「敬意の対象」にするのはへんですね。

そのためここでの「参ります」は、「来る」という「行為」を「丁重」に言うことで、この放送を「聞いている客」に配慮している表現になっています。

結果的に「会話の相手」に敬意を示している構造になるから、「丁寧語」に分類する立場もあるということなんだね。

そうですね。

ただ、「丁寧語」は、表現のまとまりと漠然と丁寧にする役割が多く、一方、「謙譲語Ⅱ」は、あくまでも「行為をつつましく控えめに述べるためのもの」なので、細かく言うとちょっと違います。

ふむふむ。

さて、尊敬語の「たまふ」にもこういった用法がありまして、それが「下二段活用」の「たまふ」です。

「下二段活用」の「たまふ」は、「思ふ」などについて「思ひたまへず」などのように用いることがあるんですね。

この用法は「謙譲語Ⅱ」とみなして、「思い申し上げない」「存じ上げない」などと訳します。

「丁寧語」のように「思いません」などと訳してもOKです。

これも「客体不在」って考えるの?

「下二段活用」の「たまふ」は、「思ふ」「見る」「聞く」「思ひ出づ」といった行為にしかつかないんですよ。

どれも、「実態的に相手に投げかける行為」ではないですよね。

ああ~。

物理的には相手を必要としていないね。

行為者のほうで自己完結している行為だから、わざわざ言わなければ「客体(行為の受け手)」は、「自分が客体である」ことにも気づかないよね。

「下二段活用」の「たまふ」については、くわしくはこちらをどうぞ。

例文

今、まゐりつる道に、紅葉のいとおもしろきところのありつる。(更級日記)

(訳)今、参りました(通ってきました)道に、紅葉のたいそう美しいところがあった。

ここにて対面したてまつらば、道場をけがしはべるべし。前の河原へ参り合はん。(徒然草)

(訳)ここで(決闘のために)対面し申し上げたら、道場をけがしてしまうでしょう。前の河原へ参りまして戦おう。

「参る」行き先が「河原」という何でもないところなので、「河原」に対する敬意とは考えられません。

つまり、「行為」を「丁重に表現する(かしこまり・ヘリくだりの表現にする)」ことで、「会話の相手」に対して失礼がないようにしている用法だといえます。

いづ方へかまかりぬる。いとをかしう、やうやうなりつるものを。(源氏物語)

(訳)(逃げたすずめは)どこへ参りました(行きました)か。たいそうかわいらしく、だんだんなっていたのに。

この例文は、「若紫」のもとから「雀」がいなくなった場面ですので、「若紫」のいる場所を「高貴なところ」と考えて、そこから「雀」が「退出申し上げる」「おいとまする」と考えれば、通常の「謙譲語」の扱いになります。

どちらかというと、そのように考えて「普通の謙譲語」と考えるほうが理に適っていますが、この例文を「謙譲語Ⅱ」や「丁寧語」とする解説書もあります。

「いかやうにかある。」と問ひ聞こえさせたまへば、「すべていみじうはべり。『さらにまだ見ぬ骨のさまなり。』となむ人々申す。まことにかばかりのは見えざりつ。」と、言高くのたまへば、

(訳)(中宮定子が)「(その扇の骨は)どのようであるか。」とお尋ね申し上げなさると、(隆家は)「すべてがすばらしゅうございます。『まったくまだ見たことのない骨の様子だ。』と人々が申します。本当にこれほどの(骨)は見たことがない。」と、大きな声でおっしゃるので、

隆家が「珍しい扇の骨」を中宮定子に自慢しに来た時のセリフです。

「見たことがない骨だ」と「人々」が「言う」ことを、隆家が「申す」と表現しています。物理的には「人々」は「隆家」に対して発言していることになりますね。

その構図でいうと、「見たことがない骨だ」という発言の「客体(対象)」は「隆家」になりますから、そこに「申す」という謙譲語を用いると、「自敬表現」になってしまいます。

自敬表現というのは、天皇クラスの人が命令形で使うことがほとんどですし、ここでは隆家よりも位が高い「中宮定子」を前にしてのセリフなので、そこで自敬表現を使うということは考えられません。

そう考えると、この「(人々)申す」は、行為の「物理的な客体」に敬意を向けているわけではなく、「会話の相手」に配慮したものの言い方であるといえます。つまり「謙譲語Ⅱ」の用法であり、丁寧語に近いものだと考えられます。

ただ、この場面は、「隆家」を介して・・・「中宮定子」に「人々のことば」を届けるわけですから、最終的な「物理的な客体」が「中宮定子」であると言うこともできます。そう考えると「謙譲語Ⅰ」の用法とみなすことも可能です。