こそあれ / こそあらめ / ばこそあらめ 連語

それはともかく

意味

こそあれ

(1)~はあるけれど、~ *「あり」が本動詞 

(2)~であるけれど、~ / ~ているけれど、~ *「あり」が補助動詞

こそあらめ

(1)~はよいだろうが、~ 

(2)~はともかく(かまわないが・仕方がないが)、~ 

(3)~がよいだろう・~するのがよい *文末表現

(未然形)ばこそあらめ

(1)(~なら)ばよいだろうが、~

(2)(~なら)ばともかく(かまわないが・仕方がないが)、~ 

ポイント

「こそあれ」は、係助詞「こそ」+動詞「あり」の已然形です。

「こそー已然形」は、後件につながっていく場合は「~けれど」という逆接のかたちで訳すことになります。「こそあれ」という言い回しはほとんどこの使い方です。

「こそあれ」は、「あり」が本動詞なら「~はあるけれど」と訳し、「あり」が補助動詞なら「~であるけれど・~ているけれど」などと訳します。

それに推量の助動詞「む」がついたものが「こそあらめ」ですね。

どうして「こそあれ」は「あるけれど」なのに、「む」がつくと、「よいだろうけど」って訳すの?

「よい」はどこからきたの?

「こそあれ」の場合は、「あること」がすでに確定していて、そもそも事実なので、「良い悪い」の次元ではなく、シンプルに「あるけれど」となります。

それに対して、「こそあらめ」の場合は、「あるだろう」と推量していることになります。「む」という助動詞は「主観的な推量(意志)」を示すので、「こうだったらいいなあ」とか「やだなあ」という「気持ち」が入りやすいのですね。どちらかというと、「こうだったらいいなあ」という「希望的観測」のほうが多いです。

したがって、「ある」という状態について、「あるといいんだけど、(ないなあ)」とか、「Aがあるのはかまわないけど、(Bはあってほしくない)」とか、「気持ち」が入った訳になりやすいのです。

その「ある」という状態について、多くの場合「~は(あるのが)よいけれど」または「~は(あっても)よいけれど」というニュアンスになります。後者の場合は、「~はともかく(として)、」と訳すことも多いですね。

ああ~。

「雨がふってもいいけれど、雪はいやだ」なんて言う場合、

「雨はともかくとして、雪はいやだ」とか、
「雨は仕方ないが、雪はいやだ」とか、
「雨はかまわないが、雪はいやだ」とか、

いろんな言い方があるもんね。

そうですね。

その状況を肯定的に認めているのであれば「~はよいだろうが、」となります。

「肯定まではしていないけれど別にあってもいい」くらいに思っていれば「~はともかく・仕方ないが・かまわないが」という訳になりますね。

結局「後ろ」次第で適訳を考えていくしかないんだな。

それに「ば」がついた「ばこそあらめ」も似たような感じなのかな。

「未然形+ば」がつく用法なので、「仮定条件」になります。

「こそあらめ」は「体言」につきやすくて、その「物体など」が「ある」ことを想定していますが、「ばこそあらめ」の場合は「未然形」のところが用言や助動詞になりますので、なんらかの「動き・状態」などが「ある」ことを想定しやすいです。

「ばこそあらめ」は「仮定条件」ですから、「~ならばよいだろうが」「~すればともかく」など、仮定的に訳しましょう。

あとは、そんなに多くないですけれど、後件の内容次第では、「~だったらいやだけど、そうじゃないから大丈夫」という感じで、「~だったらぐあいが悪いが」と訳すこともあります。

結局「後ろ」次第で適訳を考えていくしかないんだな。

そうですね。

「こそあらめ」「ばこそあらめ」などは、「逆接」の後ろの内容を読解しないと訳せないですね。

例文

中垣こそあれ、ひとつ家のやうなれば、(土佐日記)

(訳)隔ての垣根はあるけれど、ひとつの家のようであるので、

こそあれ 我も昔は 男山 栄行くときも ありこしものを(古今集)

(訳)今でこそ衰えているけれども、(気力体力が)盛んな時もあったものなのに。

表現としては「今でこそ〇〇ているが」ということを言っています。

何かの「物」が「存在する」と言っているわけではないので、この「〇〇」のところに意味的には「おとろへて」などの動詞があって、「あり」は補助動詞として使われていると考えます。言わなくてもわかるから書かれていないのですね。

逆接でつながる「うしろ」に、「栄行くときがあった」とあるので、そこをヒントに解読することになります。

桜もやうやう気色だつほどこそあれ、をりしも雨風うちつづきて、(徒然草)

(訳)桜の花もだんだん咲き出すころであるけれど、ちょうどその折、雨風が続いて、

「あり」の直前に動詞があるわけではありませんが、何かの「物」が「存在する」と言っているわけではないので、補助動詞と考えます。

思ひ出でて偲ぶ人あらんほどこそあらめ、そもまたほどなく失せて、聞き伝ふるばかりの末々は、あはれとや思ふ。

(訳)(故人を)思い出して懐かしむ人がいるうちはよいだろうけれど、そんな人もまたすぐに亡くなって、(故人のことを)聞き伝えるだけの子孫たちは、しみじみと懐かしむだろうか、いや、懐かしむまい)。

これへ迎へ参まゐらせて、一つ所にていかにもならばやとは思へども、我が身こそあらめ、御ためいたはしくて。(平家物語)

(訳)これ(都にいる平維盛の妻のもと)へ迎えを参上させて、(維盛と)同じところでどうにでもなりたいとは思うけれども、自分【維盛】の身はそれでかまわないが【自分の身はともかく】、(妻の)ためにはかわいそうで。

「いかにもいかにも心にこそあらめ。」(更級日記)

(訳)「どのようにもこのようにも(あなたの)心のままにするのがよい。」

「こそあらめ。」で文末表現になっている場合は、一種の強調と考えて、「~だよいだろう」「~するのがよい」などと訳します。

会話に出てきて、二人称に対して用いるので、この場合の「め」は「適当・勧誘」の意味になります。

などか助け給はざらん。高き位を求め、重き宝を求めばこそあらめ、ただ今日食べて、命生くばかりの物を求めて賜べ。(古本説話集)

(訳)(観音様は)どうして(私を)お助けにならないのだろう。(私が)高い位を求め、重い宝を求めるならば(お助けにならなくても)仕方がないが、ただ今日食べて、命が助かる程度の物を探してお与えください。

「何かは、今はじめたることならばこそあらめ、ありそめにけることなれば、さも心交はさむに、似げなかるまじき人のあはひなりかし」とぞ思しなして、咎めさせたまはざりける。(源氏物語)

(訳)「どうして、今に始まったことならば支障があるだろうが(ぐあいが悪いだろうが)、前から続いていることなので、そのように心を交わすとしたら、それもおかしくはないはずの人の仲であるよ」とお考えになって、お咎めにならなかった。

文脈的に、「~であったらダメだけど、そうじゃないからいいよ」という意味合いになります。

ただ、これは文意を先取りして「咎めることもあるだろうけれど/咎めてもよいだろうけれど」と訳しても問題ありません。