南院の競射(競べ弓・弓争ひ) 『大鏡』 現代語訳

『大鏡』より、「南院の競射(競べ弓・弓争ひ)」の現代語訳です。

藤原伊周これちか帥殿そちどの)が、父である藤原道隆(関白殿)の南院で「弓の競射」を催した時に、藤原道長がふと訪れたときのお話です。

「道隆」は「道長」のお兄さんなので、「道長」からみれば「伊周」は「甥っ子」にあたる存在ですが、このとき伊周は、道長(権大納言)を上回る「内大臣」になったころでした。

なお、伊周は、のちに権勢を失い、太宰権帥だざいのごんのそちに左遷・降格されましたので、後世の人は彼を「帥殿」と呼ぶことがあります。

のちに道長のほうが権力をもつわけだけれども、このタイミングでは伊周のほうが上位にいたわけだな。

「道隆」は娘の「定子」を一条天皇に女御として入内させ、「定子」はのちに中宮になりました。そういう経緯もあり、道隆は関白として不動の地位をつくっていきます。この「定子」の実のお兄さんが「伊周」です。

伊周は道隆の長男ではないのですが、お母さんの家柄の関係もあって、嫡男として扱われていたんですね。

ああ~。

なんというか、絵に描いたような「将来を約束されたようなポジション」だったんだね。

ただ、道隆が伊周をかわいがりすぎて、強引に昇進させていったことを、世の人々はあんまりおもしろく思っていなかったんですね。

そのため、道隆の死後、伊周は道長との権力争いに敗れ、失意の晩年を過ごすことになりました。

この「南院の競射」は、「伊周」と「道長」のその後の人生を予感させるようなエピソードになっていて興味深いですね。

帥殿の、~

帥殿の、南院にて人々集めて弓あそばししに、この殿わたらせ給へれば、思ひかけずあやしと、中関白殿思し驚きて、いみじう饗応しまうさせたまうて、下臈におはしませど、前に立てたてまつりて、まづ射させたてまつらせたまひけるに、帥殿の矢数いま二つ劣りたまひぬ。

帥殿【伊周】が、(道隆の館である)南院で人々を集めて弓の競射をなさったときに、この殿【道長】がいらっしゃったので、「思ってもいないことで妙だ」と、中関白殿【道隆】はびっくりなさって、たいそう(道長を)もてなしなさって、(道長は伊周よりも)官位が低い人でいらっしゃったが、(矢を射る順番を、伊周よりも)前にお立て申し上げて、先に射させ申し上げなさったが、帥殿の(射抜いた)矢数が(道長の射抜いた本数に)二本劣っていらっしゃった。

中関白殿、~

中関白殿、また御前に候ふ人々も、「いま二度延べさせたまへ。」と申して、延べさせたまひけるを、安からず思しなりて、「さらば延べさせたまへ。」と仰せられて、また射させたまふとて、仰せらるるやう、「道長が家より帝・后立ちたまふべきものならば、この矢当たれ。」と仰せらるるに、同じものを中心には当たるものかは。

中関白殿、また御前にお仕えする人々も、「あと二回、(射る勝負を)延長なされ。」と申し上げて、延長なさったのだが、(そのことを道長は)心穏やかでなくお思いになって、「それでは延長なされ。」とおっしゃって、また射なさるとして、おっしゃったことには、「道長の家から、天皇や皇后が出現なさるはずのものならば、この矢よ当たれ。」とおっしゃると、同じように当たるとはいっても、なんとまあ(的の)中心に当たるではないか。

次に、~

次に、帥殿射たまふに、いみじう臆したまひて、御手もわななくけにや、的のあたりにだに近く寄らず、無辺世界を射たまへるに、関白殿、色青くなりぬ。また、入道殿射たまふとて、「摂政・関白すべきものならば、この矢当たれ。」と仰せらるるに、初めの同じやうに、的の破るばかり、同じところに射させたまひつ。

次に、帥殿が射られたが、たいそう後れなさって、お手も震えるからであろうか、的の辺りにすら近く寄らず、まったく別の方向を射なさったので、関白殿は、顔色が青くおなりになった。再び入道殿【道長】が射なさるとして、「(私が)摂政・関白をするはずのものであれば、この矢よ当たれ。」とおっしゃると、初めの矢と同じように、的が壊れるほど(の勢いで)、同じところに射なさった。

饗応し、~

饗応し、もてはやしきこえさせたまひつる興もさめて、こと苦うなりぬ。父大臣、帥殿に、「何か射る。な射そ、な射そ。」と制したまひて、事さめにけり。

(道長を)もてなし、歓待し申し上げなさった興もさめて、気まずくなってしまった。(伊周の)父である大臣【道隆】は、帥殿【伊周】に、「(これ以上)なぜ射るのか。射るな。射るな。」と制止しなさって、事態はしらけてしまった。

 

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