今日は「連体詞」について学びましょう。
やってやるぜ。
どんとこい。
では、まず「連体詞」を定義します。
連体詞の定義
◆自立語である。 (文節の先頭になる)
◆活用しない。 (語尾が変化しない)
◆必ず体言を修飾する。(必ず体言に係っていく)
「副詞」の場合は「主に用言を修飾する」と言っておきながら、そうではないこともけっこうあったけれど、「連体詞」の場合は、必ず「体言」を修飾するんだな。
そのとおりです。連体詞の後ろには必ず「体言(名詞)」があります。
どんなものがあるんだ。
ひとまず現代語にも古語にもある連体詞でいうと、
ある日の暮れ方のことである。
あらぬ疑いをかけられる。
きたる5月27日に、いよいよ体育祭が開催されます。
さしたる証拠もないのに拘束された。
といったものです。
あとは、「あらゆる」「いはゆる」なんていうのも「連体詞」ですね。
「ある」「きたる」「あらぬ」「さしたる」「あらゆる」「いはゆる」といった語は、「活用しない」ということだな。
でも、「ある」って、動詞の「あり」じゃないの?
もともとは、動詞の「あり」です。
ただ、「ある法師の〜」「ある国にて〜」などというときの「ある」は、「存在している」という意味というよりは、英語でいう冠詞の「 a 」みたいなもので、「任意のひとつ」「たくさんあるうちのひとつ」という意味合いです。
ああ〜。
たしかに、冠詞の「 a 」みたいだね。
連体詞として固定されると、「語義そのもの」ではなくて、ちょっと「解釈的な意味」になるんですよね。
たとえば、
別当入道、さる人にて、(みんなにお願いされなくても、みんなが見たがっている包丁さばきを見せた)
の「さる」なんかは、「然る」であって、語義としては「そういう人」という意味だけど、この表現だと、「相当な人物」とか「すごい人」みたいな感じで使ってるもんな。
まさに、そういう使い方は「連体詞」に分類されますね。
「体言に係っていく言い回しが固定されて、解釈的な意味で通用するようになった語」です。
「きたる」「さしたる」「いはゆる」「あらゆる」とかもそうなんだな。
「きたる」という語も、もともとは「やって来る」という動詞ですが、「きたる丑の日」のような使い方をすると、「次の(未来の)丑の日」という意味合いになります。
「さしたる」という語も、もともとは、指示語「さ」+サ変動詞「す」+助動詞「たり」であって、「そうしている」ということです。しかし、下に打消表現を伴って、「さしたる事なくて」などのように使うと、「それほどの用事もなくて(たいした用事もなくて)」という訳になります。つまり、「重要ではない」という意味合いになります。
「いはゆる」という語は、漢語の「所謂」にあてた表現です。もともとは動詞「言ふ」+上代の助動詞「ゆ(自発・受身)」であって、「言われる」ということです。次第に「世間一般で言うところの」という意味合いになりました。
「あらゆる」という語は、漢語の「所有」にあてた表現です。動詞「あり」+上代の助動詞「ゆ(自発・受身)」であり、「自然にある(人為とは無関係にある)」ということです。次第に「ある限りの・すべての」という意味合いになりました。
ふむふむ。
このように、「体言」に係っていく使い方が浸透して、もともとの語義とはちょっとずれた解釈的な意味として使われるようになり、やがて「きまった言い回し」として固定されたものが「連体詞」だと考えてください。
ただ、複数の語が連なってできたものがほとんとで、それらは「一語の連体詞」ではなく、「連語」として考えても間違いではないのですね。
そのため、古文の世界で「一語の連体詞としか言えない」とされることばは非常に少ないです。