名詞
① 即時・即座・即刻
② 当時・当座・その時
副詞
① すぐに・ただちに・たちまち・即座に
接続詞
① つまり・ということは
③ それで・そこで・そうして
ポイント
「すなはち」は、『日本書紀』のころから使用が確認される古いことばです。
語源としては、「其程」「間道」「墨縄路」「其果」「其間」「其終」といったことばのどれかが転じたのではないかと言われています。「すなほみち」がつまったものという説などもあります。
漢語としては「即」の意味が近いので、「即」を「すなはち」と訓じました。「即」は、「皀」が「ごちそう」を表し、「卩」が「ひざまずく人」を表しているといわれます。
ああ~。
「ごちそう」に「ひざまずく」ということは、「いただきます」のポーズだろうな。「今まさに食べ始める」ということだ。
面白い漢字ですね。
「即ち」は、現代語と同様に「すぐ」という意味で、「即時・即座・即刻」という訳になる名詞です。『万葉集』では「登時」を「すなはち」と訓じていますが、これも「すぐ」という意味の名詞になります。
時を表す名詞は、文脈上、用言に係っていくことも多いので、「すぐに~」「ただちに~」という意味で用いられるようになり、「副詞」として定着していきました。
古文で見るときは、副詞として「すぐに」と訳す場合が多いような気がするね。
あとは、漢文を訓読するときに、「即」「則」「乃」など、いくつかの漢字をどれも「すなはち」と訓読しましたので、「則」や「乃」の意味も「すなはち」に吸収されていきました。
「則」は、「鼎」に「刀」で約束事を書くことと言われ、前後関係に法則性(条件と結果など)があることを示します。「法則」の「則」ですね。
「法則」とか「則る(基準にしたがう)」とかの「則」だもんね。
「乃」は、「弓が曲がっている様子」とか「耳たぶ」とか「胎児が丸まっている様子」とか「背中がつきでた人」など諸説あるのですが、いずれにしても、前後関係に何らかのつながりがあることを示します。
いまでも「猫乃湯」とか、「澤乃井」とか、前後をつなぐ使い方をしているな。
「乃」は、ひらがなの「の」のもとになりましたから、助詞の「の」を漢字で表したいときに使用したのでしょうね。
漢文での接続詞「乃」は、「順接(それで・そこで)」「逆接(しかるに・それなのに)」どちらの使い方もありますが、古文の「すなはち」を「逆接」で使用することはありません。
まとめると、「すなはち」が接続詞の役割を果たしているときは、
【言い換え】 A、つまり、B
【順接】 A、それで、B
のどちらかで訳しましょう。
ああ~。
現代語の「すなわち」は、接続詞の「つまり」の意味に近い感じがするね。
古文の問題になるのは、
①主に中古の使用例が多く
②現代と意味が違うもの
がメインになりますから、「すぐに・ただちに・たちまち」という「副詞(or副詞的用法)」が圧倒的に多いですね。
例文
とく下ろさむとて、綱を引き過ぐして綱絶ゆる即ちに、八島の鼎の上にのけざまに落ちたまへり。(竹取物語)
(訳)(家来たちが、石上の中納言を)早く下ろそうとして、綱を引きすぎて綱が切れると同時に【即座に】、(中納言は)八島の鼎【八つの神器】の上にあおむけに落ちなさった。
「名詞」です。
すなはちは、人みなあぢきなきことを述べ、いささか心の濁りも薄らぐと見えしかど、(方丈記)
(訳)(大地震の起こった)当時は、人はみな世のはかなさを述べ、少しは心の汚れも薄らぐように見えたが、
「名詞」です。「直後」と訳すこともできますね。
思ひ知る人も年月積もり行けば、すなはちのやうにやはある。(発心集)
(訳)よく知っている人も年月が積もり行くと、その頃のままでいようか(いや、変わっている)。
「名詞」です。
立てこめたる所の戸、すなはちただ開きに開きぬ。(竹取物語)
(訳)(かぐや姫を)閉じ込めていた場所の戸が、たちまち【即座に】どんどん開いてしまう。
「副詞」です。
少将起きて、小舎人童を走らせて、すなはち、車にて、まめなる物、さまざまに持て来たり。(大和物語)
(訳)少将は起きて、召し使いの子どもを走らせて、すぐに、牛車で、実用的な物を、いろいろと持って来た。
「副詞」です。
狂人のまねとて大路を走らば、すなはち狂人なり。(徒然草)
(訳)狂人のまねといって大通りを走れば、(その人は)つまり狂人である。
「接続詞」です。
一時の懈怠、すなはち一生の懈怠となる。(徒然草)
(訳)一時の怠けが、取りも直さず【言うまでもなく】一生の怠けになる。
「接続詞」です。