理想のイメージ
意味
連語 動詞「あり」+助動詞「まほし」
(1)あってほしい・ありたい
形容詞
(1)理想的だ・望ましい
ポイント
もともとは、動詞「あり」+助動詞「まほし」であり、「存在することを希望する」ということです。
ある事物や現象に対して、「こうあってほしいと思えるほどだ」とほめている場合には、一語の形容詞として考えます。
こりゃあ、区別がややこしいね。
単純に「あってほしい・存在してほしい」と「希望している」場合には、動詞「あり」+助動詞「まほし」なのです。
それに対して、何らかの事物や現象について、「こうであってほしいよね」と「肯定的評価」をしている場合、「あらまほし」で一語の形容詞と考えます。「あらまほし」という表現そのものが、「ほめことば」になっているケースです。その場合は、「理想的だ」「望ましい」などと訳します。
ふむふむ。
たとえばですが、具体的な月に対して、「あらまほしき月なり」などと称賛したとします。
その場合、「月」に対して、「理想的な月だ」「望ましい月だ」と肯定的に評価していることになります。これは、「月」の状態や性質を「形容」していることになりますよね。
ああ~。
これを「存在してほしい」と訳すのはへんだね。
現代語でも、すばらしい俳優さんなどに対して、「役者はこうあってほしいねえ!」などとほめる場合、「理想的だ」「望ましい」と形容していることになります。
このように、古語の「あらまほし」は、何らかの対象を「理想のイメージどおり!」とほめている場合には、一語の形容詞と考えます。
それに対して、何かの「物体そのもの」が「存在してほしい」と希望している場合は、動詞「あり」+助動詞「まほし」と考えます。
じゃあ、たとえば、旧暦八月十五日の昼ごろに、
「今宵は あらまほしき 月 あらまほし(今夜は 理想的な 月が あってほしい)」
と言ったとしたら、1つめの「あらまほし」は一語の形容詞で、2つめの「あらまほし」は「動詞+助動詞」ということだな。
そういう使い方を見たことはありませんが、理屈のうえではそういうことになりますね。
例文
少しのことにも、先達はあらまほしきことなり。(徒然草)
(訳)ちょっとしたことでも、先導する者はあってほしいことである。
「先達」という「存在そのもの」が「あってほしい」と願っているので、動詞「あり」+助動詞「まほし」です。
人はかたち、ありさまの、優れたらんこそあらまほしかるべけれ。(徒然草)
(訳)人間は容貌や、風采が、すぐれているような人こそ、理想的だろう【望ましいだろう】。
「人は」というテーマについて、「姿かたちが優れている人」という例を挙げて、それを「理想的だ」と述べていることになるので、一語の形容詞と考えます。
これ、最初の「人は」という主題(テーマ)がなかったら、
「姿かたちが優れている人」が「いてほしいはずだ」ってことになって、動詞「あり」+助動詞「まほし」っていう解釈にならない?
「人は」がなければ迷うかもしれませんね。
ただ、仮に「人は」がなかったとしても、この章の文の流れが、「こういう人は、好ましい」「こういう人は、立派ではない」というように、人物をジャンル分けして「評価」しているものなので、「理想的だ」「望ましい」という形容詞で解釈するほうがいいですね。
このように、前後の文脈も見ないと判断しにくいケースもあります。
ところで、『徒然草』に出てくる「あらまほし」は、ほとんどが「一語の形容詞」です。上の例文にある「先達はあらまほしきことなり」のように、明確に「動詞+助動詞」と考えられるもの以外は、「形容詞」のほうで考えておきましょう。