木曽の最期 『平家物語』 現代語訳

『平家物語』より「木曾の最期(きそのさいご)」の現代語訳です。

「木曾」は簡易体の「木曽」と書くことも多いです。

義仲と巴について

木曾義仲(源義仲)がどんな人なのかについてはこちら。

https://hohoemashi.com/waka/kiso-yoshinaka/

巴がどんな人だったかについてはこちら。

https://hohoemashi.com/waka/tomoe/

木曾左馬頭、~

木曾きそ左馬頭さまのかみ、その日の装束しょうぞくには、赤地のにしき直垂ひたたれに、唐綾縅からあやおどしよろい着て、鍬形くわがた打つたるかぶとの緒締め、いかものづくりの大太刀おおだちはき、石打ちの矢の、その日のいくさに射て少々残つたるを、頭高かしらだかに負ひなし、滋籘しげどうの弓持つて、聞こゆる木曾の鬼葦毛おにあしげといふ馬の、きはめて太うたくましいに、金覆輪きんぷくりんくら置いてぞ乗つたりける。

木曾左馬頭【木曾義仲】、その日の装束としては、赤池の錦の直垂に唐綾威の鎧を着て、鍬形を打ちつけた甲の緒を締め、いかめしく立派に見えるように造った太刀を腰につけ、石打ちの矢で、その日の合戦に射て少々残ったのを、(先端が)頭より高く突き出るように背負い、滋籐の弓を持って、有名な木曾の鬼葦毛という馬で、非常に太くたくましいのに、金覆輪の(金で縁取りした)鞍を置いて乗っていた。

鐙ふんばり立ち上がり、~

あぶみふんばり立ち上がり、大音声だいおんじょうをあげて名のりけるは、「昔は聞きけんものを、木曾の冠者かんじゃ、今は見るらん、左馬頭兼伊予守いよのかみ朝日あさひの将軍源義仲ぞや。甲斐かい一条次郎いちじょうのじらうとこそ聞け。互ひによいかたきぞ。義仲討つて兵衛佐ひょうえのすけ(源頼朝)に見せよや。」とて、をめいてく。

鎧を踏ん張って立ちあがり、大声をあげて名のったことには、「以前はうわさに聞いたであろう、木曾の冠者、今は見るだろう、左馬頭兼伊予守、朝日の将軍源義仲であるぞ。甲斐の一条次郎と聞く。互いによい敵だ。義仲を討って、兵衛佐(頼朝)に見せよ。」と言って、叫んで馬を走らせる。

一条次郎、~

一条次郎、「ただいま名のるは大将軍ぞ。余すな者ども、もらすな若党わかとう、討てや」とて、大勢の中に取りこめて、われ討つ取らんとぞ進みける。木曾三百余騎、六千余騎が中を縦さま・横さま・蜘蛛手くもで十文字じゅうもんじに駆け割つて、後ろへつつと出でたれば、五十騎ばかりになりにけり。そこを破つて行くほどに、土肥次郎実平どいのじらうさねひら二千余騎で支へたり。それをも破つて行くほどに、あそこでは四、五百騎、ここでは二、三百騎、百四、五十騎、百騎ばかりが中を駆け割り駆け割り行くほどに、主従五騎にぞなりにける。

一条次郎は、「ただいま名乗るのは大将軍だ。討ちあますな者ども、討ちもらすな若党、討てよ。」と言って、(義仲を)大勢の中に取り囲んで、自分こそ討ち取ろうと進んだ。木曾三百余騎は、六千余騎の中を、縦に、横に、四方八方に、十文字に駆け破って、後ろへつつと出ると、五十騎ほどになってしまった。そこを破って行くうちに、土肥次郎実平が、二千余騎で行く手を阻んでいた。それをも破って行くうちに、あそこでは四、五百騎、ここでは二、三百騎、百四、五十騎、百騎ほどの中を駆け破り、駆け破り行くうちに、(木曾勢は)主従五騎になってしまった。

五騎がうちまで~

五騎がうちまで巴は討たれざりけり。木曾殿、「おのれはう疾う、女なれば、いづちへも行け。われは討ち死にせんと思ふなり。もし人手にかからば自害をせんずれば、『木曾殿の、最後のいくさに女をせられたりけり。』なんど言はれんことも、しかるべからず。」とのたまひけれども、なほ落ちも行かざりけるが、あまりに言はれ奉りて、「あつぱれ、よからうかたきがな。最後のいくさして見せたてまつらん」とて、控へたるところに、武蔵むさしの国に聞こえたる大力だいぢから御田おんだ八郎師重はちらうもろしげ、三十騎ばかりで出で来たり。

五騎の中まで巴までは討たれなかった。木曽殿は、「お前は早く早く、女だから、どこへでも行け。自分は討ち死にしようと思うのだ。もし人手にかかるならば自害をしようと思っているので、木曾殿が最後の戦いに女を連れておられたなどと言われるようなことも、よいはずがない。」とおっしゃったけれども、(巴は)そのまま落ちて行かなかったが、あまりに何度も言われ申して、「ああ、よい敵がいるといいなあ。最後の戦いをしてお見せ申しあげよう。」と言って、控えているところに、武蔵の国で評判の大力の、御田八郎師重が、三十騎ほどで出て来た。

巴、その中へ駆け入り、~

巴、その中へ駆け入り、御田八郎に押し並べ、むずと取つて引き落とし、わが乗つたるくら前輪まえわに押しつけて、ちつとも動かさず、首ねぢ切つて捨ててんげり。その後物の具脱ぎ捨て、東国の方かたへ落ちぞ行く。手塚太郎てづかのたらう討ち死じにす。手塚別当てづかのべっとう落ちにけり。

巴は、その中へ駆け入り、御田八郎に(馬を)並べて、(御田を)むんずとつかんで(馬から)引き落とし、自分の乗った鞍の前輪に押しつけて、少しも身動きさせず、首をねじ切って捨ててしまったのだった。(巴は)その後、武具を脱ぎ捨て、東国の方へ落ち延びていく。手塚太郎は討ち死にする。手塚別当は落ちのびた。

今井四郎、木曾殿、ただ主従二騎になつて、~

今井四郎、木曾殿、ただ主従二騎になつて、のたまひけるは、「日ごろは何とも覚えぬよろいが、今日は重うなつたるぞや。」今井四郎申しけるは、「御身おんみもいまだ疲れさせたまはず。御馬おんうまも弱りそうらはず。何によつてか一領の御着背長おんきせながを重うはおぼしめし候ふべき。それは御方みかた御勢おんせいが候はねば、臆病でこそさはおぼしめし候へ。兼平かねひら一人候ふとも、余の武者千騎とおぼしめせ。矢七つ八つ候へば、しばらく防き矢つかまつらん。あれに見え候ふ、粟津あわづの松原と申す。あの松の中で御自害候へ」とて、打つて行くほどに、また新手あらての武者五十騎ばかり出で来たり。

今井四郎、木曾殿、ただ主従二騎になって(義仲が)おっしゃったことには、「普段は何とも思わない鎧が今日は重くなったぞ。」今井四郎の申したことには、「お体もまだお疲れになっていない。お馬も弱っておりません。どうして、一領の御鎧を重くお思いになるはずがありましょうか。それは味方に御軍勢がありませんので、気後れでそうお思いになるのです。兼平一人がおりましても、余りの武者が千騎いると思いなされ。矢が七、八本ございますから、しばらく防ぎ矢をいたしましょう。あそこに見えます、粟津の松原と申します。あの松の中で御自害なさいませ。」と言って、(馬に鞭を)打って行くうちに、また新手の武者が五十騎ほど出てきた。

「君はあの松原へ入らせたまへ。~

「君はあの松原へ入らせたまへ。兼平はこのかたきを防き候はん。」と申しければ、木曾殿のたまひけるは、「義仲、都にていかにもなるべかりつるが、これまで逃れ来るは、なんぢ一所いっしょで死なんと思ふためなり。所々で討たれんよりも、一所ひとところでこそ討死をもせめ。」とて、馬の鼻を並べて駆けんとしたまへば、今井四郎、馬より飛び降り、主の馬の口に取りついて申しけるは、「弓矢取りは、年ごろ日ごろいかなる高名こうみょう候ふとも、最期の時不覚しつれば、長ききずにて候ふなり。御身は疲れさせたまひて候ふ。続く勢は候はず。敵に押し隔てられ、言ふかひなき人の郎等らうどうに組み落とされさせたまひて、討たれさせたまひなば、『さばかり日本国に聞こえさせたまひつる木曾殿をば、それがしが郎等の討ちたてまつたる。』なんど申さんことこそ口惜しう候へ。ただあの松原へ入らせたまへ。」と申しければ、木曾、「さらば。」とて、粟津の松原へぞ駆けたまふ。

「君(義仲)はあの松原へお入りなされ。兼平はこの敵を防ぎましょう。」と申したところ、木曾殿のおっしゃったことには、「義仲は、都で討ち死にするつもりであったが、ここまで逃げて来たのは、お前と同じ所で死のうと思うためだ。別々の所で討たれるよりも、同じ所で討ち死にをしよう。」と言って、馬の鼻を並べて駆けようとしなさるので、今井四郎は、馬から飛び降り、主君の馬の口に取りついて申し上げたことは、「武士は、長年の間どんなに高名がありましても、最期の時に不覚をしてしまうと、長い不名誉であるのです。お体はお疲れになっていらっしゃいます。続く軍勢はありません。敵に押し隔てられ、とるにたりない人の郎党に組み落とされなさって、お討たれになってしまったならば、『あれほど日本国で有名でいらっしゃった木曾殿を、誰それの郎党がお討ち申し上げた。』などと申すようなことが残念でございます。ただあの松原へお入りなされ。」と申したので、木曾は、「それならば。」と言って、粟津の松原へ駆けなさる。

今井四郎ただ一騎、~

今井四郎ただ一騎、五十騎ばかりが中へ駆け入り、あぶみ踏んばり立ち上がり、大音声だいおんじょうあげて名のりけるは、「日ごろは音にも聞きつらん、今は目にも見たまへ。木曾殿の御乳母子おんめのとご、今井四郎兼平、生年三十三にまかりなる。さる者ありとは鎌倉殿までも知ろし召されたるらんぞ。兼平討つて見参げんざんに入れよ。」とて、射残したる八筋やすじの矢を、差しつめ引きつめ、さんざんに射る。死生は知らず、やにはに敵八騎射落とす。

今井四郎はただ一騎で、五十騎ほどの中へ駆け入り、鎧を踏ん張って立ち上がり、大声をあげて名乗ったことは、「日ごろは噂にも聞いているだろう、今は目で見なされ。木曾殿の御乳母子、今井四郎兼平、年は三十三になっております。そういう者がいるとは鎌倉殿までもご存知であるだろうぞ。兼平を討って(鎌倉殿に)首をご覧入れよ。」と言って、射残してあった八本の矢を、差さしつめ引きつめ、散々に射る。生死は知らず、たちまちに敵八騎を射落とす。

その後打ち物抜いて、~

その後打ち物抜いて、あれにせ合ひ、これに馳せ合ひ、切つて回るに、おもてを合はする者ぞなき。分捕りあまたしたりけり。ただ、「射取れや。」とて、中に取りこめ、雨の降るやうに射けれども、よろいよければ裏かかず、あき間を射ねば手も負はず。

その後太刀を抜いて、あちらに馳せ合い、こちらに馳せ合い、切って回るが、正面から立ち向かう者がいない。敵の命をたくさん奪った。ただ、「射殺せ。」と言って、(兼平を)中に取り囲んで、雨が降るように射たが、鎧がよいので裏まで通らず、(鎧の)隙間を射ないので傷も負わない。

木曾殿はただ一騎、~

木曾殿はただ一騎、粟津の松原へ駆けたまふが、正月二十一日、入相いりあいばかりのことなるに、うすごおり張つたりけり。ふかありとも知らずして、馬をざつと打ち入れたれば、馬の頭も見えざりけり。あふれどもあふれども、打てども打てども働かず。今井が行方のおぼつかなさに、振り仰ぎたまへるうちかぶとを、三浦のいしだのらうためひさ、追つかかつて、よつ引いて、ひやうふつと射る。痛手なれば、まっこうを馬の頭に当ててうつぶしたまへるところに、石田が郎等二人落ち合うて、つひに木曾殿の首をば取つてんげり。

木曾殿はただ一騎で、粟津の松原へ駆けて行かれたが、正月二十一日、日の入る頃のことであるので、薄氷が張っていた。深田があるとも知らないで、馬をざっとうち入れたところ、馬の頭も見えなくなった。(鎧で)横腹を蹴っても蹴っても、(鞭で)打っても打っても動かない。(義仲は)今井の行方が気がかりで、振り向いて仰ぎなさった甲の内側を、三浦の石田次郎為久が、追いかけて弓を引いて、ひょうふっと射る。(義仲は)重傷なので、甲の鉢の前面を馬の頭に当ててうつぶしなさったところに、石田の郎党二人が落ち合って、とうとう木曾殿の首を取ってしまった。

太刀の先に貫き、~

太刀の先に貫き、高くさし上げ、大音声をあげて、「この日ごろ日本国に聞こえさせたまひつる木曾殿を、三浦の石田次郎為久が討ち奉りたるぞや。」と名のりければ、今井四郎、いくさしけるが、これを聞き、「今はたれをかばはんとてか、いくさをもすべき。これを見たまへ、東国の殿ばら、日本一のこうの者の自害する手本。」とて、太刀の先を口に含み、馬よりさかさまに飛び落ち、つらぬかつてぞ失せにける。さてこそ粟津のいくさはなかりけれ。

(首を)太刀の先に貫いて、高くさし上げ、大声をあげて、「近ごろ日本国に評判でいらっしゃった木曾殿を、三浦の石田次郎為久がお討ち申しあげたぞ。」と名のったので、今井四郎は戦っていたが、これを聞き、「今は誰をかばおうとして、戦をする必要があろうか。これを見なされ、東国の方々よ、日本一の剛の者が自害する手本だ。」と言って、太刀の先を口に含み、馬からさかさまに飛び落ち、貫かれて死んでしまった。こうして粟津の合戦はなくなった。