上もうち驚かせ給ひて(枕草子)

〈問〉次の傍線部を現代語訳せよ。

上の御前の、柱によりかからせ給ひて、すこし眠らせ給ふを、「かれ見奉らせ給へ。今は明けぬるに、かう大殿籠るべきかは。」と申させ給へば、「げに。」など宮の御前にも笑ひ聞こえさせ給ふも、知らせ給はぬほどに、長女が童の、鶏をとらへ持てきて、「朝に里へ持ていかむ。」と言ひて、隠しおきたりける、いかがしけむ、犬みつけて追ひければ、廊の間木に逃げいりて、恐ろしう鳴きののしるに、みな人おきなどしぬなり。うへもうち驚かせ給ひて、「いかでありつる鶏ぞ。」など尋ねさせ給ふに、大納言殿の、「声、明王の眠りを驚かす。」といふことを、高ううち出だし給へる、めでたうをかしきに、ただ人の眠たかりつる目もいと大きになりぬ。「いみじき折の言かな。」と、上も宮も興ぜさせ給ふ。なほかかることこそめでたけれ。

枕草子

現代語訳

天皇が、柱によりかかりなさって、少しお眠りになっているのを、(大納言殿が)「あれを拝見なさいませ。今は夜が明けたのに、こうしてお休みになってよいのでしょうか、いや、よくないでしょう。」と(中宮に)申し上げなさると、「本当に。」などと中宮様も笑い申しあげなさるのも、(天皇は)ご存じないうちに、長女の(おつきの)童が、鶏を捕らえて持ってきて、「朝に実家へ持っていこう。」と言って、隠しておいたのが、どうしたのだろうか、犬が見つけて追ったので、(鶏は)廊下の長押の上の棚に逃げ込んで、恐ろしく鳴き騒ぐので、皆起きるなどしてしたようだ。天皇もはっと目をお覚ましになって、「どうして鶏がいたのか。」などお尋ねになると、大納言殿が、「声が、明王の眠りを覚まさせる。」ということ【詩句】を、声高に吟じなさったのが、すばらしく趣深かったので、家臣【私】の眠たかった目もたいそう大きくなった。「すばらしく折に合った詩句だよ。」と、天皇も中宮もおもしろがりなさる。やはりこのようなことはすばらしい。 

ポイント

上(うへ) 名詞

うへ」は天皇のことです。

うち 接頭語

「うち」は接頭語で、訳出しない場合も多い語です。

「打つ」行為から派生した接頭語で、「軽度」「瞬間」「明白」などのニュアンスをもちます。

接頭語「うち」は、手をパンッとたたくイメージで考えましょう。

手をパンッとたたくのは、時間にすれば瞬間なので、「ほんのちょっと」という意味で使用することができます。

その一方、「パチン!」という音が出るので、「はっきりと」という意味でも使用することができます。

それゆえ、たとえば「うち笑はせたまふ」という表現は、以下a.b.どちらの訳も可能になります。

a.かすかにお笑いになる (「ほんのちょっと」のニュアンス)
b.にっこりとお笑いになる (「はっきりと」のニュアンス)

前後の文脈から、適切なニュアンスをとりこんで訳しましょう。ただし、選択肢の問題では訳出されないことも多いものです。記述問題でも、訳出が難しければ無理しなくてよいです。

ここでは、鶏のすさまじい鳴き声で目が覚めたのですから、「はっとお目覚めになって」などと訳すことができますね。

ただ、「おどろく」という動詞に「はっと」というニュアンスがそもそも含まれています。

おどろく 動詞

動詞「おどろく」は「(はっと)目を覚ます」「(はっと)気づく」の意味です。単純に「起きる」ということではなく、はっと意識がはっきりする状態を指します。

「おどろかす」となっていることから、「目を覚まさせる」「気づかせる」といった意味だと考えてしまいがちですが、この文脈は「おどろかせ/給ふ」ではなく、「おどろか/せ給ふ」であると判断するところです。

「上」の行為ですので、ほとんどの行為には「最高敬語」が付きます。

天皇の行為には、基本的に、「給ふ」だけではなく、「尊敬」の意味としての助動詞「す・さす」を付けて、「せ給ふ」「させ給ふ」という敬語を用います。

「尊敬の助動詞」と「尊敬語」をかぶせており、「最高敬語」と言われます。

文脈的にも、天皇が誰かをおどろかしたのではなく、ご自身でおどろいている場面なので、

「はっとお目覚めになった」と訳します。

+α す さす

助動詞「す」「さす」は、もともと「使役」の意味ですが、直後に「たまふ」を伴う「す」「さす」は、そのほとんどが「尊敬」の意味になります。

貴人は様々なことを人にさせるので、たとえば、

(貴人が)衣着させたまふ。

という文の場合、実態としては、人にあれこれと指図して着せてもらっていることになります。とはいえ、大づかみな状況としては「貴人が着物をお召しになっている」ということができます。こういった表現の仕方は、非常に偉い人の場合、現代語でもしばしば起こります。

たとえば、

太田道灌が江戸城を築城した。

などと普通に言いますけれども、実際には太田道灌が多くの人々に指示をして建てさせているわけです。本当はいろいろな人が関わっていても、「江戸城を建てた」という大きな行為における主語を一人おくとすれば、「させた人(指示した人)」になるわけです。

古文でも、「~せたまふ」「~させたまふ」といった表現は、もともとは「~をさせなさる」という意味で使用され始めたと考えられますが、その多くの人の行為の集積をひとまとまりとみなし、主語を一人おくとすれば、それは「させた人(指示した人)」になります。当然それは「位の高い人」です。なにしろ「指示する側」ですから。

そうやって、「せたまふ」「させたまふ」を使っていくうちに、特に誰かに何かをさせているわけではないのに、つまり天皇お一人の単独行動なのに、「せたまふ」「させたまふ」をつけていくようになったのですね。

平安期には、明らかに貴人その人が笑っているのに「笑はせ給ふ」と表現するような場面が増えてきます。この場合、明らかに使役ではないので、「尊敬」という意味として分類することになります。

じゃあ、「~せたまふ」「~させたまふ」となっていたら、その「せ」「させ」は「尊敬」と考えればいいんだな。

ほとんどはそうなりますが、注意点が2つあります。

① 「~せおはします」「~させおはします」など、「たまふ」以外の尊敬語についていることも時々ある。

② 明らかに誰かに何かをさせている場合には、「尊敬」ではなく「使役」と考える。