こそ(ー已然形) 係助詞

~けれど、~

意味

~こそ(ー已然形)、 *前提句となる

(1)~は(こそ)ーけれど / ~は(こそ)ーものの、 *逆接強調

~こそ(ー已然形)。 *文末表現(前提句とならない)

(2)~は(こそ)ー  *強調

(3)~は(こそ)ー なのになあ  *余情 

ポイント

「こそー已然形」が「前提」となり、後件につながっていく場合は「~けれど」という逆接のかたちで訳すことになります。

「こそー已然形」が「文末表現」なのであれば、「余情表現」または「強調表現」と考えます。

「こそー已然形」は、「強い強調」という感じがするけど、後ろに文が続くと「逆接」になるんだね。

奈良時代にはこの「逆接強調」のかたちで使用されることのほうが普通でした。

まず、「已然形」は「已にそうである形」ということで、「事実(あるいは事実と判断されるような情報)」を示しました。

したがって、已然形の後ろに文が続くと、已然形のところは「前提条件」として機能し、「順接(~すると・~ので)」「逆接(~が・~のに)」の役割を持ちます。

その前提条件に強調の「こそ」が加わると、「前提条件」と「後続する結果」の「落差」が生まれますので、その「前件と後件の落差」ゆえに、多くは「逆接」の構文として用いられるようになります。

ああ~。

あんなに努力した/けれど/あっさり負けた

とか、

たくさん雪が降った/けれど/すぐに溶けた

とか、「前」を強調して言えば言うほど「後ろ」には「予想される結果とは逆の現象」が来やすいよね。

そうですよね。

このように、「~こそー已然形」という構文は、「後ろで逆のことを言う」ときに用いられやすい表現でした。

次第に、後ろに何も書かず、「結び」として使用することも増えていきます。ただ、それは「後件省略」で成り立っているので、「何か言いたいことを含んでいる表現」になります。和歌などで使われている場合、「余情・余韻」とでも言ったほうがいいケースも多いですね。

秋の気配を探しているんだけどなあ・・・(しないなあ)

みたいな感じかな。

後件の「しないなあ」を言わなくても、言いたいことはわかるもんね。

わざと言わないで余韻を残す・・・みたいな使い方ですね。

中古に入ると、「後ろ」を書かない「こそー已然形」が増えていきます。

前述した「余情」の使い方もありますけど、状況的に「余情」を示すような場面ではないなあという場合には、単純に「強調」と考えて大丈夫です。

「こそ」による強調は、「ぞ」とか「なむ」よりも強い強調とされます。

ああ~。

今でも「できないって言ってるんですけど!」とか使うもんね。

その場合、本来であれば「何度もできるって言うのやめてください」みたいな文が続きますよね。

でも、「~けど!」まで言えば、だいたい伝わります。だいたい伝わるので、後件を書かずに、「こそー已然形」で結んでしまう用法が増えていきました。

「こそー已然形」で結んでしまう用法が増えるにしたがい、「逆接強調」の使い方はだんだん減っていきます。

でも、現代でも、

喜びこそすれ、まさか悲しむことはしない。

とか、「逆接強調」の使い方は残ってるよね。

ああ~。

残ってますね~。

例文

男は、この女をこそと思ふ。(伊勢物語)

(訳)男は、この女を手に入れようと思う。

心内文の文末表現なので、「強調」と考えます。

「強調」は訳に出す必要はありませんが、「こそ」は現代でも使う語なので、そのまま「こそ」と書いてもOKです。

中垣こそあれ、ひとつ家のやうなれば、(土佐日記)

(訳)隔ての垣根はあるけれど、ひとつの家のようであるので、

「中垣こそあれ」が「前提」となり、後件に文がつながっていくので、「逆接強調」と考えます。

品、顔こそ生まれつきたら、心はなどか、賢きより賢きにも移さば移らざらん。(徒然草)

(訳)家柄や容貌は生まれつきであろうけれども、心は、賢さをよりいっそうの賢さに移そうとするならば、どうして移らないことがあろうか。

これも「逆接強調」です。

「見た目は生まれつきでどうしようもないけれど、心は賢くなろうとすれば必ず賢くなる」と言っているのですね。