自然と目に入ってくる
意味
(1)見える・目に入る
(2)現れる・やって来る
(3)会う・対面する
(4)見られる
(5)感じられる・思われる
(6)結婚する・妻になる
(7)見ることができる *多く、打消表現を伴う
(8)見せる *他動詞として
ポイント
上一段動詞「見る」に、上代の助動詞「ゆ」がついて一語化しました。
「ゆ」はもともと接尾語で、「見ゆ」などのように動詞の活用語尾に使用されることで助動詞化していったという説もあります。
「ゆ」は主に「自発」の意味を持つため、「見ゆ」は「自然と目に入る」ということを意味します。
また、「受身」のニュアンスで「見られる」、「可能」のニュアンスで「見ることができる」などと訳すこともあります。
「見る」とは別の動詞なんだね。
はい。
俗に、「見る」が「watch」や「look」に近く、「見ゆ」が「see」に近いという説明がなされることがあるのですが、「見る」と「見ゆ」はもっと根本的に異なる点があります。
「watch」や「look」は「注意して意識的に見る」ことで、「see」は「注意というほどでもなく漠然と目に入れる」ことだと理解しているのだけれど、「見る」と「見ゆ」はそれ以上の違いがあるのかな?
「watch」も「look」も「see」も「見る側」が「対象」を「まなざす」という点では同じ主体者の行為なのですね。
しかし、「見ゆ」の場合は、「目に入ってくる対象」のほうが主語になりやすいことばなのです。
「見る」の主体が「見ている人」である(PがQを見る)ことに対して、「見ゆ」の主体は「目に入ってくるもの」になりやすい(Qが目に入る)ということです。
ああ~。
「山を見る」だったら、「誰かが山を見る」ということだけれども、
「山見ゆ」だったら、「山が目に入る(現れる)」ということであって、「山」が主語になるということなのかな。
そういうことになります。
したがって、英語の「see」とは文構造での使われ方が異なります。
ただ、日本語は「主語の規定」そのものがあいまいなので、たとえば「山見えぬ日」という表現を「山を見ることができない日」と訳した場合、主語は「その山を見ようとしている人」になります。
これを「山が見えない(現れない)日」と訳した場合、主語は「山」になります。
ああ~。
たしかにそうだね。
日本語は「述語」中心の言語なので、「主語」と「目的語」の規定が甘いのですね。
そのため、「主語」と「目的語」は訳をするうえでコロコロ入れ替わったりします。
なお、「目的語」というのは、「~を」「~に」という「対象」を示す語だと思ってください。学校文法(国語)では「目的語」という語を用いず、「連用修飾語」に位置付けられます。
たしかに先生たちよく「目的語」っていうけど、実際には国語で習ってないよね。
本当はこれ大問題ですよね。
概念を規定していない語をやすやすと使用して授業が進んでいるのですよ。
口語文法で教えていない用語を使って漢文とかを教えていることになるもんね。
そういう事情もありまして、漢文では「目的語」と「補語」を分けずに「補足語」とまとめる教え方もあります。
学校での口語文法で「目的語」という語を国語で扱わないこととか、漢文では「目的語」と「補語」をくっきり区別する必要がないことから、個人的には「補足語」とする指導法がよいと思っています。
例文
海の中に、はつかに山見ゆ。(竹取物語)
(訳)海の中に、かすかに山が見える。
ものも言はで籠り居て、使う人にも見えで、(大和物語)
(訳)何も言わずにこもっていて、召し使う人にも会わないで、
心ざし 深くそめてし をりければ 消えあへぬ雪の 花と見ゆらむ (古今和歌集)
(訳)思いを深く染めて(春を待って)いたので、消え残った雪が、花と見えるのだろう。
いかならむ人にもみえて、身をも助け、幼き者どもをもはぐくみ給ふべし。(平家物語)
(訳)どのような男でも結婚して、(あなたの)身を助け、幼い子供たちをも大切にお育てになるがよい。
つひに御車ども立てつづけつれば、副車の奥に押しやられてものも見えず。(源氏物語)
(訳)とうとう(葵の上の)お車たちを止め並べてしまったので、(六条御息所は)お供の車の奥に押しやられて何も見ることができない。
「見ることができる」の意味で用いる場合は、打消表現を伴い、まとまりとしては「見ることができない」と訳します。