『枕草子』「五月ばかりなどに山里に歩く(さつきばかりなどにやまざとにありく)」の現代語訳です。
教科書によっては、「五月ばかりなどに」という表題です。
五月ばかりなどに山里に歩く、~
五月ばかりなどに山里に歩く、いとをかし。草葉も水もいと青く見えわたりたるに、上はつれなくて、草生ひ茂りたるを、ながながとたたざまに行けば、下はえならざりける水の、深くはあらねど、人などのあゆむに走り上がりたる、いとをかし。
五月の頃などに(牛車で)山里を動きまわるのは、たいそう趣がある。草葉も水も一面にたいそう青く見えているところに、表面は何事もない様子で、草が生い茂っているところを、長々とまっすぐに行くと、(草の)下は並々でなかった水が、深くはないのだが、従者などが歩くときに(水しぶきが)はね上がっているのは、たいそうおもしろい。
左右にある垣にあるものの枝などの、~
左右にある垣にあるものの枝などの、車の屋形などにさし入るを、急ぎてとらへて折らむとするほどに、ふと過ぎてはづれたるこそ、いと口惜しけれ。蓬の、車に押しひしがれたりけるが、輪の回りたるに、近ううちかかりたるもをかし。
左右にある垣にある何かの枝などが、牛車の屋形などに入ってくるのを、急いでとらえて折ろうとするうちに、さっと過ぎて(手から枝が)外れたのは、たいそう残念だ。蓬で、牛車に押しつぶされたものが、車輪が回ったときに、(屋形の)近くにやってくるのもおもしろい。
最後の「うちかかりたる」は、「うちかかへたる」ではないかという説もあります。
「かかふ」は、「香かふ」とも書き、「香がただよう」という意味です。
そちらの説でいうと、「蓬が車輪ですりつぶされて、近くまで香りが漂ってくるのがおもしろい」と述べていることになりますね。