〈問〉次の傍線部を現代語訳せよ。
悲田院の尭蓮上人は、俗姓は三浦のなにがしとかや、さうなき武者なり。ふるさとの人の来たりて、物語すとて、「吾妻人こそ、言ひつることは頼まるれ、都の人は、ことうけのみよくて、実なし。」と言ひしを、聖、「それはさこそ思すらめども、おのれは都に久しく住みて、なれて見侍るに、人の心劣れりとは思ひ侍らず。なべて、心柔らかに、情けあるゆゑに、人の言ふほどのこと、けやけく否び難くて、よろづえ言ひ放たず、心弱くことうけしつ。偽りせんとは思はねど、乏しく、かなはぬ人のみあれば、おのづから本意通らぬこと多かるべし。吾妻人は、わが方なれど、げには心の色なく、情けおくれ、ひとへにすくよかなるものなれば、始めより否と言ひてやみぬ。にぎはひ豊かなれば、人には頼まるるぞかし。」とことわられ侍りしこそ、この聖、声うちゆがみ荒荒しくて、聖教の細やかなる理、いとわきまへずもやと思ひしに、この一言の後、心にくくなりて、多かる中に寺をも住持せらるるは、かく柔らぎたるところありて、その益もあるにこそとおぼえ侍りし。
徒然草
現代語訳
悲田院の尭蓮上人は、俗姓を三浦の何々とかいう人で、並ぶものがないほどの武者だある。故郷の人が(尭蓮上人を)訪ねてきて、話をするといって、「東国の人は、口にしたことは信頼できるが、都の人は、口先の請け合いだけはよくて、誠実さがない。」と言ったところ、僧【尭蓮上人】は、「あなたはそのようにお思いになるようだが、私は都に長く住んで、(都に)慣れて見ておりますが、(都の)人の心が(吾妻人に比べて)劣っているとは思いません。(都の人は)一般に、心が穏やかで、思いやりがあるために、人が言うほどのことは、きっぱりと断わりにくくて、万事、言いきることができず、気弱く受け答えをしてしまう。嘘をつこうとは思わないが、貧乏で、思いどおりの暮らしができない人ばかりなので、自然と本来の目的が通らないことが多いのだろう。東国の人は、私の故郷の人ではあるが、実は心の優しさがなく、人情味が少なく、ひたすら不愛想な者であるので、はじめから「いやだ」と言って終わってしまう。(吾妻人は)富み栄えて、裕福なので、人から頼りにされるのだよ。」と道理を説明されましたので、(訪ねてきた人は)この僧【尭蓮上人】は、声になまりがあり、荒々しくて、仏典の細かな道理は、それほどわきまえていないのかと思っていたが、この一言の後は、(尭蓮上人のことが)奥ゆかしくなって【奥ゆかしいと思って】、(僧が)多い中に、寺をも住職として管理なさっているのは、このように柔和なところがあって、そのおかげもあるのだろうと思われました。
ポイント
心にくし 形容詞(ク活用)
「心にくく」は、形容詞「心にくし」の連用形です。
「奥ゆかしい」「心惹かれる」などと訳します。
古文の「にくし」は、現代語の「憎い」の感情とはほど遠く、「ちょっとしゃくにさわる」くらいの意味になることが多いです。
「心にくし」も、「にくし」とは言っていますが、「(にくらしく思うほど相手を)奥ゆかしい(と思う)」というニュアンスであり、基本的に「ほめ言葉」として使います。
「憎し」の反対の意味をもつ語は、「易し(やすし)」です。つまり、「憎し」は「簡単ではない」というニュアンスをそもそも持っているのです。
これは、「対象への理解や納得が、簡単には心の中を通過していかない」ということであり、「なんか引っかかるなあ」ということを意味しています。
つまり、「対象にとらわれている心の状態」を「憎し」といいます。その「腑に落ちない」心の状態を、「しゃくに障る」「気に食わない」などと訳したりしますが、あくまでも「納得できない」という程度のものであり、「憎悪」の意味はありません。羨望や、うらやみのニュアンスで言うこともあります。
そのことから、「こちらがしゃくに障るほど相手が興味深い」という意味で、「感心だ」「あっぱれだ」と訳すこともあります。
現在でも、「よ! にくいね!」などという場合は、相手をほめている使用法です。さて、それに「心」がつき、「心憎し」となると、そのように相手を立てる意味での用法が圧倒的に多くなります。
代表的な訳は「奥ゆかしい」です。「奥ゆかしい」とは、相手の「奥」を「知りたい」と思うということです。「あいつは、ほんと、にくいやつだよ! あいつのことをもっと知りたいよ!」ということですね。
なる 動詞(ラ行四段活用)
「なり」は、動詞「なる」の連用形です。
意味は現代語と同じなので、そのまま「なる」としておけば大丈夫です。