「を」「に」「が」の訳し方がよくわからない。
そもそも、「格助詞」として扱うのか、「接続助詞」として扱うのか、判断しにくいものが多いですね。
あるいは、どちらとも取れるので判断する必要がないものもたくさんあります。
基本的には、いずれも格助詞っぽい使い方から始まってはいます。
ただ、古文は「とき」「ところ」「もの」「こと」「さま」といった形式名詞は書きませんし言いませんので、
轅ほうとうちおろすことを、「いかにぞ」と問へば、
などという文は、
轅ほうとうちおろすを、「いかにぞ」と問へば、
というように書いてしまうことが普通です。
この「を」などは「接続助詞」の用法ですけれども、直前の体言さえ書かれていれば、「格助詞」と言えないこともないですね。
「を」はかなり早い段階で「接続助詞化」していますから、直前に体言がなく、「節」と「節」をつないでいる「を」については、基本的に「接続助詞」と考えておいてよいです。
「に」はどうなる?
「に」については、とくに「時」や「場所」を示しているときに、その体言が書かれないことが多くなります。
桂川、月の明きにぞ渡る。
であれば、
桂川を月が明るいときに渡る。
というように、「とき」を補って訳す必要があります。
「に」の直前に体言がちゃんと書かれている場合、あるいは体言を補わないと訳せない場合は、その「に」は「格助詞」と判断します。
一方、次の例文を見てみましょう。
あやしがりて、寄りて見るに、筒の中光たり。(寄って見ると)
涙のこぼるるに目も見えず、ものもいはれず。(涙がこぼれるので)
これらは、「に」の直前に「とき」「ところ」「こと」といった体言を補わなくても訳せますし、「~(する)と」「~ので」などと訳したほうがスムーズです。
これらも、「とき」という体言を入れて見ると、格助詞として訳せないこともないですが、「節」と「節」をつないでいて、訳出の際に体言を補う必要性が低ければ、「接続助詞」と考えておきましょう。
「が」はどうなった?
「が」が「接続助詞化」したのはけっこう遅いです。
平安時代中期までの「が」は、ほとんどすべて「格助詞」です。『源氏物語』とか『枕草子』あたりに出てくる「が」は「格助詞」ですね。
平安時代の末期になると、「接続助詞」の「が」が登場してきます。
昔より多くの白拍子ありしが、かかる舞はいまだ見ず。
のように、『平家物語』あたりには、接続助詞の「が」がまあまあ出てきます。
現代語訳はどう考えればいいんだ?
格助詞であれば、「を」「に」「が」はそのまま「を」「に」「が」としておけばいいですね。
体言が書かれていなければ、「とき」とか「ところ」などを補っておきましょう。
「が」を「同格」で取って「で」と訳す時などもありますが、基礎としては、格助詞の「を」「に」「が」はそのまま「を」「に」「が」です。
接続助詞「を」「に」「が」は、
a.単純接続 ~(する)と、
b.順接 ~ので、
c.逆接 ~が、
のいずれかで訳します。
前後の文脈によって適切な訳し方を考えるのですが、a.b.はどちらでもいいこと場合も多くなります。
まあ、傍線が引かれて「現代語訳せよ」などと問われているのでなければ、あんまり深く考えないほうがいいですね。
あんまり「絶対これだ」と考えすぎないほうがいいのか。
接続助詞としての「を」「に」「が」などは、「つなげるためのもの」というよりは、むしろ「一区切りする」ための言葉なんですよね。
「論理的に後ろにつなげるぞ!」というものではなくて、「ここらへんで一回休み」という感覚です。
だから、「接続助詞」とは言うんですけど、感覚的には「一区切り助詞」です。
そういう意味で、わりとどうとでも訳せますし、特に訳さずに、そこを「。」だと思って区切ってしまってもいいくらいです。問題として問われていなければ、単純にそこで一回区切って考えましょう。
傍線部が引かれて、現代語訳せよ、と問われていたら、「~すると」「~ので」「~が」のどれかを当てはめておきましょう。
あいよ。
接続助詞「を」「に」「が」などは、「一区切り」の感覚があるからこそ、そこで主語が変更される可能性も高くなります。
「主語が変わりにくいとき・変わりやすいとき」についてはこちらをどうぞ。