4つあって困る
助動詞「る」「らる」は、意味が4つもあって、混乱するぞ。
助動詞「る」「らる」は、本質的には「コントロールできない」ということです。
「る」「らる」がつくことによって、その動詞は、こちら側が恣意的に操作できない現象・運動であることを示します。
「自発」や「受身」はわかるとして、「尊敬」とか「可能」は、操作できないものか?
「尊敬」は、「偉い人の行為」につきますね。
「自分よりも身分が下の人」の動きについては、「あっちへ行け」「こっちへ来い」などと操作することはできますが、「身分が上の人」にあれこれ指図することはできません。
ああ~。
たしかに校長先生とかの動きは操作できないよな。
でも、「可能」は、「できる」ってことだから、操作できてるんじゃないの?
「可能」は、
まどろまれず。(眠ることができない。)
のように、「ず」を伴って使うんです。
「ず」がなくても、「なし」があったり、「やは(反語)」があったりして、結果的に「できない」という文脈になるのですね。
文脈としては「できない」になりますが、「る」「らる」という助動詞のみを取り出した場合、そこだけだと「できる」という意味を示していることになるので、「可能」という意味になります。
たしかに、そうすると、「自発・受身・尊敬・可能」は、どれもコントロールできないものだな。
では、見分け方のポイントをおさえていきましょう。
まずは活用を見ておきます。
活用・接続
助動詞「る」の活用です。
未然形 連用形 終止形 連体形 已然形 命令形
れ / れ / る /る る/る れ/れ よ
助動詞「らる」の活用です。
未然形 連用形 終止形 連体形 已然形 命令形
ら れ/ら れ/ら る/らるる/らるれ/られよ
どちらも、「未然形」につきます。
「る」と「らる」の違いは何なんだ?
意味は同じです。
接続も同じ「未然形」です。
違うのは直前の「音」です。
「る」は「a音」にしかつきません。
「らる」はそれ以外の音につきます。
思は る
食は る
乗ら る
植ゑ らる
せ らる
射 らる
見 らる
って感じかな。
そのとおりです。
未然形の語尾が「a音」になるのは「四段」「ナ変」「ラ変」なので、
「る」は「四段・ナ変・ラ変の未然形につく」ということになります。
「らる」は「上一段・下一段・上二段・下二段・カ変・サ変の未然形につく」ということになります。
「使役・尊敬」の助動詞「す」「さす」の関係と同じなんだな。
では、意味の区別をしていきましょう。
もともとは自発
「る」「らる」は、本質的に「自分の意志とは無関係」というニュアンスを伝える助動詞です。
もともとは「自発」を意味しました。たとえば「泣く」とか「思ふ」などにつきます。
自分の意志とは無関係に、つい涙が出る。
自分の意志とは無関係に、ふと思う。
といった感じかな。
そうです。
「る」の前身は上代の助動詞「ゆ」です。
「ゆ」は「自発」や「受身」を意味しましたから、「る」となったあとも、初期の段階では「自発」と「受身」の意味だったと考えらえています。
受身 ~される
「本人の意志とは関係なく動作を受け取る」ということから、「受身」の意味で使用されます。
何かを「される」ということは、「本人の意志」ではなくて、「相手(自分ではない)」のほうの意志になりますよね。
可能 ~できる
(下に打消を伴い)「本人の意志とは関係なくできない」という意味合いで、「可能」の役割をもちます。
「る」「らる」だけを取り出せば「可能」ですが、打消表現を伴うため、文脈としては「できない」ということになります。
本人が「やろう」と考えていても、できないことってありますよね。
尊敬 ~なさる/お~になる
「本人の意図が影響を与えられない偉い人の行動」という意味合いで、「尊敬」の役割を持ちます。
「偉い人の行動」は、こちらからあれこれ指示できません。
その点で、「偉い人」というのは、下位の者からは制御されず、自然現象のように動いていることになります。
このように、「自発」「可能」「受身」「尊敬」の4つの意味になるということを前提に細かい注意点を下に記します。
見分けるポイント
物は受身文の主語になりにくい。(例外あり)
「受身」は「自分の意志に関係なく動作を受け取ってしまうこと」を意味します。そういう場合にわざわざ「る」「らる」をつけるのです。
その点で、物(無生物)にはそもそも意志がありませんから、物を主語にした「受身文」は例外的な用例になります。
「尊敬」の意味は中古以降
「尊敬」の意味が出てくるのは平安時代以降です。
まあ、そうはいっても、古文の試験の範囲を考えたときに、「平安時代以降」って言ったら、ほぼすべての時代だけどな。
「る・らる」の「尊敬」の意味って、平安中期にはまだ「萌芽状態」なんですよね。
院政期あたりを境に、「ああ、これはまぎれもなく尊敬だ」ってはっきり区別できる用法が固まってきて、「敬語」としての立ち位置を確立していくイメージです。
ですので、平安中期には、「尊敬」といってもまだ「敬意の程度が軽い表現」という位置づけでした。
下に「尊敬語」があったら「尊敬」ではない。
「~れたまふ」「~られたまふ」などの「れ」「られ」は「尊敬」ではありません。
助動詞「る」「らる」の「尊敬」の用法は、ややレベルの低い尊敬表現とされていました。
そのため、「最高敬語(二重尊敬)」をつくるほどの「価値」を持っていなかったとされています。
「れ給ふ」「られ給ふ」という表現を見ると、一瞬、「せ給ふ」「させ給ふ」と同じような「最高敬語(二重尊敬)」かな、と思いがちなのですが、そうではなく、「自発」「受身」「可能」のどれかになります。
鎌倉時代以降になると、「最高敬語(二重尊敬)」っぽい「れたまふ」「られたまふ」も登場するのですが、数が少ないので、試験においては無視して大丈夫です。
下に「謙譲語」があったら「尊敬」ではない。
「~れ奉る」「~られ申す」などの「れ」「られ」が「尊敬」の意味になることはありません。
通常、古文では「謙譲表現」と「尊敬表現」がセットになる場合、「謙譲⇒尊敬」の語順になります。謙譲表現の直前に尊敬表現が来ることは原則的にありませんので、謙譲語の直前にある「る」「らる」が「尊敬」の意味になることはありません。
無意識的動作についていたら「自発」
「思ふ」「泣く」などの無意識的動作についている「る」「らる」は基本的に「自発」の意味になります。
無意識的動作である「尊敬語」につくものは……
「無意識的動作」が「尊敬語」である場合は、時代によって解釈がやや変わります。
平安時代までは、「尊敬語」の直後の「る・らる」は、「尊敬ではない」と考えます。
平安時代には、「る・らる」の「尊敬」の用法は、「敬意の程度が軽い」とみなされていたことから、「れ給ふ」「られ給ふ」は「最高敬語(二重尊敬)」にはならず、この場合の「る・らる」は「自発・受身・可能」のどれかになるという話をしました。
同様に、平安時代においては、「おぼさる」「おぼしめさる」などの「る」は、「尊敬」ではなくて「自発」と考えます。
ただし、「仰せらる」は特殊な例外であり、「最高敬語(二重尊敬)」として機能しています。
くわしくはこちら。
さて、鎌倉時代以降は、「る・らる」の「尊敬」の用法について「敬意が軽い」とはそれほど思われなくなり、天皇の行為であっても「る」だけで敬意を示すような表現が増えてきました。
それに伴い、「尊敬語」に「尊敬」の意味の「る・らる」がつくようにもなってきました。
「ご覧ぜらる」の「らる」などがそれにあたりますね。
以上のことから、たとえば「おぼさる」の「る」、「おぼしめさる」の「る」などは、平安時代までは「自発」と考えますが、鎌倉時代以降は「尊敬」でとっても問題ないケースが増えてきます。
鎌倉時代以降は、「尊敬語」についている「る・らる」は、むしろほとんどが「尊敬」の意味ですね。
たとえば「ご覧ぜらる」などは、意図的に「最高敬語(二重尊敬)」をつくっていることになります。
平安時代とは勝手が違うんだな。
前述したように、平安中期ごろは、「尊敬」の意味はまだ確固たるものになっていなかったので、「る・らる」を使用する「意図」としては、「敬意をこめる」という意識は低いのです。
偉い人の行為に用いられている「る・らる」も、「敬意」をこめているというよりは、「偉い人のふるまいが、あまりにも自然に達成されてしまう様子」を表現しています。そのため、助動詞の意味として「尊敬」と名付けてしまっていいのか迷ってしまうようなポジションなんですね。
鎌倉時代には、明らかに「敬意をこめる」という意図で「る・らる」を使っていますので、その時代の使い方からさかのぼって、「尊敬」という意味をあてている感じです。
ですから、平安中期ごろの「る・らる」については、「自発・受身・可能」のどれでもないものは「尊敬」にしておく、というとらえ方がいいのかもしれません。
「謙譲語」の直後についていたら「尊敬」
「申さる」などの「る」は「尊敬」です。
「可能」の場合、一般的に否定の文脈で使用される。
「可能」の用法は、「~れず」「~れることなし」など、下に打消表現を伴い、文意としては「できない」という文脈で使用されます。反語表現を伴うこともあります。
打消表現や反語表現を伴わず、「できる」という文意で使用される用例は、鎌倉時代に入ってからはしばしば登場します。
では、例文で確認していきましょう。
例文その1
見るにもの覚えずなりて、またいみじう泣かるれば、
「自発」です。
「泣く」という無意識的動作についているからです。
例文その2
みづからはましてものだに言はれず。
「可能」です。
下に打消表現がある場合は、まず「可能」の意味で考えてみましょう。「だに」が「~さえ」を表すことから、「~さえ言えない」という文脈になり、違和感がありません。
例文その3
車さし寄せて乗らむとて、かき起こされて、
「受身」です。
「起こされる」という意味的に「受身」です。無意識的動作ではないので「自発」ではありません。否定の文脈ではないので、一般的には「可能」でもありません。
例文その4
かかるありきなれども、をさをさならひ給はぬ心地に、心細くをかしく思されけり。
「自発」とも「尊敬」とも言えます。
「思す」が無意識的動作なので「自発」と考えることができます。
一方で、「思す」が尊敬語なので「尊敬」と考えることもできます。
もしこれが中古の作品ならば「自発」でとらえるのがよく、中世以降の作品ならば「尊敬」と考えるのがよいと言われますが、実際には区別が曖昧なので、これが「自発」なのか「尊敬」なのかということを試験で問うことはまずありません。
例文その5
償問はれば、千五百貫と答へよ。
「受身」です。
下に「答へよ」があることからも、「問われれば」と訳すのが常識的です。現代語訳で「れ」がそのまま残るものは「受身」と考えましょう。
例文その6
あたの風吹きて三つある船二つは損なはれぬ。
「受身」です。
「物」は受身文の主語になりにくいのですが、「行為の主体者のほうも人間でないとき」は、「物を主語にした受身表現」として成立することがあります。
ここでは「風」によって「船」が損なわれたのであるため、これにあてはまります。
また、「行為の主体者がはっきりしないとき」も、例外的に「物を主語にした受身表現」になりえます。「(誰かに)几帳が壊される」などの表現です。
いずれにせよ、「雨」とか「露」などの「自然物」は擬人化されて、「人」として扱われることもあるので、注意が必要です。
物は受身文の主語になりにくいとは言えども、必ずならないわけではないと考えておきましょう。
例文その7
涙のこぼるるに、目も見えず、ものも言はれず。
「可能」です。
下に打消表現がある場合は、まずは「可能」の意味で考えてみましょう。
「涙がこぼれて~話すことができない」となり、文脈的にも違和感がありません。
例文その8
新しう造り給へる殿を、宮たちの御裳着の日、みがきしつらはれたり。
「尊敬」です。
「みがきしつらふ(磨いて飾り付ける)」は意識的なので「自発」ではありません。
打消の文脈ではないので、「可能」の可能性は低いです。
「給へ」「殿」「御」など、貴人に関係する語が出てくることからも、誰か貴人を主語にした「尊敬」の文脈と考えられます。なお、「殿」はここでは建造物であるので、「殿」を主語にした「受身」の文は成立しにくいと言えます。
「殿を」となっているので、「殿」はここでは「目的語」ですね。
例文その9
申されたることの候ふな。
「尊敬」です。
「謙譲語」の直後につく「る」「らる」は、基本的に「尊敬」になります。
例文その10
ただ木ぞ三つ立てる。
「存続」または「完了」です。
そもそも「自発・可能・受身・尊敬」の「る」ではありません。
直前が「e音」になっている「ら・り・る・れ」は、助動詞であるならば「存続・完了」の助動詞「り」です。
ああ~。
最後の例文は、そもそも助動詞が違ったのか。
「自発・可能・受身・尊敬」の「る」ではなくて、「存続・完了」の「り」ですね。
助動詞「り」についてはこちらをどうぞ。