文の成分 = 文節の役割
「文の成分」とは、「文節の役割」だと考えてください。
学校で教わる文法だと、次の5つに分けます。
主語
述語
修飾語
接続語
独立語
本当はもうちょっと細かく分ける立場もあるのですが、学校ではこの5つに分ける立場をとります。
今日は「主語」と「述語」を見ていきましょう。
やってやるぜ。
どんとこい!
文節で考える
雀の子を 犬君が 逃がしつる。
であれば、「犬君が」が主語で「逃がしつる」が述語です。
「犬君」が「主語」で「逃がし」が「述語」ではないのか?
日本語文法の成分の分類として、「主語」「述語」「修飾語」「接続語」「独立語」という分け方は、一般的に「文節」の単位で区別します。
文法書によって例外はありますが、「文節」で考えるものが多いですね。
手元にある高校生向けの文法書で確認したところ、12冊中11冊が、「主語」「述語」といった「文の成分」を「文節」で仕分けしています。
というわけで、ここでは、「文の成分」は「文節」で考えることを基本とします。
文節で考えるということはわかった。
では、「主語」と「述語」とはいったいなんだ。
主語ー述語のセット
「主語ー述語」のセットは、基本的に次の5パターンになります。
①何がーどうする 【動作】
②何がーどんなふうだ 【状態】
③何がーどういうものだ【性質】
④何がーある(ない) 【存在】
⑤何がー何だ。 【名称】
「主語」というものは、ここでの「何が」に相当する文節のことです。
ということは、
「どうする」「どんなふうだ」「どういうものだ」「ある(ない)」「何だ」のほうに相当する文節が「述語」ということだな。
そのとおりです。
たとえば、
① 花 ー 咲く 【動作】
② 庭 ー きよらなり 【状態】
③ 石 ー かたし 【性質】
といった文は、すべて左側が「主語」で、右側が「述語」です。
「状態」と「性質」は、区別しきれないものもある
②「状態」と③「性質」の区別が難しいな。
「そのとき」のことを述べているなら【状態】で、「本質的なこと(そもそもそうであること)」を述べているなら「性質」と考えるといいですね。
上の②の例文で言えば、「庭」は住人が掃除をしているからこぎれいになるので、「清らなり」というのは「そのとき」の話をしていると考えられます。したがって【状態】です。
しかし、③の例文で言えば、「石」はいついかなる時も硬いですね。昨日は硬くて、明日は柔らかいとはなりません。このように、「そもそもの本質的なこと」を語っているのであれば、【性質】だと考えましょう。
ただし、「状態」と「性質」はどちらとも言えないものもありますから、あまり細かく分ける必要はありません。
たとえば、
女房の優なるを〜
という表現があったとします。これだけだと、その女房がいつも上品であるのか、特定のタイミングだけ優美であるのかわかりませんね。この場合、これだけの情報では【状態】とも【性質】とも言えません。
このように、「区別できないものもたくさんある」と考えておきましょう。状態と性質をいちいち分けない文法書もあります。
ふむふむ。
とにかく、文のなかには「主語ー述語」のセットは必ずあるのだな。
主語が書かれていないことも多い
事実上は(現象的には)あります。
ただし、古文では、「行為者としての主語」が書かれていないパターンは非常に多いです。
そもそも、古来の日本語は、「誰が」「誰に」「○○した」という「行為の向き」がはっきりした表現をあまりせず、そこで「○○」という「現象が起きている」というとらえかたをする傾向にあります。
現代語でも、「お茶が入りました」なんて言いますよね。
この文でいえば主語は「お茶」になりますが、もし英語だったら、「お茶」は目的語にまわして、「入れた人」を主語として表現することになります。
どこに書かれるかも一定ではない
英語だと、ふつう最初に書かれているのが「主語」だと思うんだけど、日本語だとそうでもないよね。
はい。
日本語では、最初に主語が書かれているとは限りません。
英語だと、基本的に文の先頭が主語ですね。
I have a pen.
You play tennis.
He walked in the park yesterday.
といったような文では、「I」「You」「He」が主語です。
最後の例文に注目してみましょう。
英語は、「重要なことは最初のほう」という法則がありますから、
彼は → 歩いた → 公園を → 昨日
といように、「誰がどうした」が最初にきます。そして、「公園を」とか「昨日」といった「オマケ」が後ろにくっついてきます。
でも、日本の現代語だと、次のように書かれることが多くなります。
彼は 昨日 公園を 歩いた。
あるいは、
昨日、彼は 公園を 歩いた。
とか、
昨日は 公園を 彼が 歩いた。
といった表現まで可能になってきます。
日本語の主語って探しにくいんだな。
主語の把握(まずは述語から確認する)
英語に比べると「主語」の特定には時間がかかりますね。
日本語の場合、特に古文の場合は、とにかく「述語」をまず特定するのが先です。
「述語」を確認して、そこに直接つながる「何が」にあたるものが「主語」だと考えましょう。
とはいえ、前述したように、その「主語」が表現されていないことも多いです。
現代語の話になっちゃうんだけど、
「うさぎは耳が長い」の主語は何なの?
「うさぎは」も「耳が」も主語に思える。
よく「ゾウは鼻が長い」という例文で議論になるやつですね。
いくつか考え方があるのですが、「学校で教わる文法」での考え方を示しておきます。
結論から言うと、この文について、「文全体の主語は何か」と学校で問われることは稀です。これは大学生以上が議論するような内容です。
ただし、中高生の試験問題において、「長い」に傍線が引かれて、「長い」に対する主語は何か、と問われる可能性は十分あります。
その場合、「うさぎはー長い」だと「うさぎそのもの」が「長い」ことになっちゃって変だから、「耳がー長い」というセットになるのか。
そうです。
「長い」に対する「主語」は「耳が」です。
うさぎは 耳が長い 生き物だ。
だったら?
この場合、「耳が長い」という部分が、まるごと「生き物だ」という述語にかかってっていますね。
細かく分けると、
うさぎは 耳 が 長 い 生き物だ 。
全体の主語 部分的な主語 部分的な述語 全体の述語
という関係になります。
この表現について、
「長い」の主語は何か?
と聞かれたら、「耳が」になります。
「生き物だ」の主語は何か?
と聞かれたら、「うさぎは」になります。細かく見れば、主語と述語が2つずつあるんですね。
日本語では、「述語」が2つある場合、基本的には「より後ろに書かれている述語」が「より大きな構造での述語」になります。
そのため、もしも、「この文全体の述語は何か?」と問われたら、「生き物だ」になります。
すると、「生き物だ」に直接つながる「何が」にあたる文節は「うさぎは」になりますから、「この文全体の主語は何か」と問われたら、正解は「うさぎは」になります。
ということは、
昨日は あさがおの芽が 出た。
であれば、「出た」が「文全体の述語」になるから、主語は「出た」に直接つながるものとして「芽が」になるということだな。
ところが、
昨日は あさがおの芽が 出た 特別な日だ。
であれば、「日だ」が「文全体の述語」になるから、主語は「日だ」に直接つながるものとして「昨日は」になるということだな。
そういうことになります。
学校で教わる文法の立場で言いますと、日本語は、とにかく「表現されている述語」をまず特定して、そこに直接つながる「何が」にあたるものを「主語」と考えます。
「述語から考える」ことが基本なのです。
もしも「述語」が書かれていなければ、「セット」の原則が崩れていますから、「主語」というものも確定できないことになります。
たとえば、
明日は君が旅立つ日だ。
という文であれば、この文全体の主語と述語は「明日はー日だ」になります。
「君がー旅立つ」は「文内文の主語と述語(小さな主語と述語)」のセットになります。
しかし、
明日は君が旅立つ。
という文であれば、「明日は」に対する述語である「日だ」が書かれていませんから、この場合、「明日は」を主語と見なすことは困難です。主語は「述語」が書かれていてはじめて特定できるものなのです。
したがって、
明日は君が旅立つ。
という文の主語は、きちんと書かれている「旅立つ」という「述語」に直接つながる「何が」にあたるものとして、「君が」になります。
くりかえしますが、以上の話は「学校で教わる文法」の立場です。
中高の試験においては、「述語ありき」で考えてください。
古文は「~が」「~は」はほとんど書かれない
現代語だと、
〇〇が、
〇〇は、
というのが主語の目印になりやすいよね。
現代語では、「~は」と「~が」が多いですね。
ただし、古文では、「は」「が」はほとんど書かれていないので、現代語訳をするときに補って訳す必要があります。
花咲けり
なら、「花が咲いた」ということだな。
中納言参りたまひて
なら、「中納言が参上なさって」ということだな。
そうですね。
古文で「主語」とみなせるものの後に助詞がなければ、「○○が〜」「○○は〜」というように、補って訳しましょう。
いま「なければ」と言いましたが、たいていはないです。
「たいていはない」っていうのはすごいね。
そもそも「主語」という感覚で使用していないケースも多くて、単純に人物名・役職名をバンっと出しているにすぎない書き方も多いんですよね。「話題(主題)の提示」という感覚でしょうか。
現代語訳するうえで、それを「主語」とみなして、「が」や「は」を付け足して訳すということはけっこうありますね。
補足:「文全体の主語」の定め方における別の考え方
いろいろ述べましたが、日本語においては、「この文の主語は何か」という問い自体が、かなりシンプルな文構造でないと成立しません。
古文で「シンプルな文」というのはほとんどありませんので(そもそも「一文」という考え方が希薄なので)、「この文の主語は何か」と問われると、なかなか答えにくい状況になりますね。
もしも傍線部問題として試験で問われた場合には、傍線部の最も後ろの述語を確認し、それとセットになる主語を確認しましょう。繰り返し述べているとおり、古文では書かれていないことも多いので、別箇所に書かれている人物名・役職名などを拾ってくる必要が生じます。
とにかく「述語ありき」なんだな。
最後に補足です。
「この文の主語は何か」と問われた場合、「述語」を特定して、その「述語」とセットになる「主語」を確認すると述べましたが、考え方によっては、正解が複数出てしまう文があります。
そのことについて、以下に「補足」をしておきます。