『大鏡』より、「右大将道綱の母/太政大臣兼家」の現代語訳です。
ここに出てくる「女院」は、「藤原詮子」のことで、円融天皇の女御です。
その父「藤原兼家」の長男が「道隆」です。詮子からみるとお兄さんですね。
「兼家」は正妻とのあいだに「道隆」をもうけておりましたが、その後「陸奥守倫寧」の娘さんに求婚し、「道綱」が生まれます。この「道綱」の母こそが、「蜻蛉日記」の作者である「藤原道綱の母」です。
兼家はさらに別の恋人もいましたから、『蜻蛉日記』には、そういった苦悩が描かれていくことになります。
今回のお話のもととなる文章も『蜻蛉日記』にあります。
ああ~。
それはやすやすと門を開けたくはないよね。
この父大臣の御太郎君、~
この父大臣の御太郎君、女院の御一つ腹の道隆の大臣、内大臣にて関白せさせたまひき。二郎君、陸奥守倫寧の主の女の腹におはせし君なり。道綱と聞こえし。大納言までなりて、右大将かけたまへりき。この母君、極めたる和歌の上手におはしければ、この殿の通はせたまひけるほどのこと、歌など書き集めて、『蜻蛉の日記』と名づけて、世に広めたまへり。
この(女院【詮子】の)父大臣【藤原兼家】のご長男は、女院【詮子】の同腹の道隆の大臣で、内大臣であって関白をしていらっしゃった。ご次男は、陸奥守藤原倫寧の主の娘の腹にいらっしゃった【腹からお生まれになった】方である。道綱と申し上げた。大納言にまでなって、右大将を兼ねていらっしゃった。この(道綱の)母君は、この上ない和歌の名人でいらっしゃったので、この殿【兼家】がお通いになったころのことや、和歌などを書き集めて、『蜻蛉日記』と名付けて、世にお広めになった。
殿のおはしましたりけるに、~
殿のおはしましたりけるに、門を遅く開けければ、たびたび御消息言ひ入れさせたまふに、女君、
嘆きつつ 独り寝る夜の あくるまは いかに久しき ものとかは知る
いと興ありとおぼし召して、
げにやげに 冬の夜ならぬ 真木の戸も 遅く開くるは 苦しかりけり
殿【兼家】がおいでになった時に、(女君は)門をなかなか開けなかったので、たびたび(従者に)来意を告げさせなさったところ、女君は、
(門が開くまでの時間とは比べようもなく、あなたが来ない日に)嘆きながら一人で寝る夜の、明けるまでの間は、どんなに長いものとおわかりになるか、いや、おわかりになるまい。
(兼家はこの歌を)たいそう趣きがあるとお思いになって、
ほんとうにまったく(そのとおりだ。とはいえ、)冬の夜ではない(今夜ここで)真木の戸がなかなか開かないことも、つらいものだなあ。
ちなみに、結局兼家は入れてもらえなくて、別の女の家に行ったらしいです。
それで、道綱母は「嘆きつつ~」の歌を色あせている菊に挿して送るのですが、それに兼家が返した歌が「げにやげに~」の歌であったようです。
兼家・・・
「いと興あり」とか思っている場合じゃないよね。
そのへんの流れは元ネタである『蜻蛉日記』でどうぞ。