〈問〉次の傍線部を現代語訳せよ。
それを二つながら持て、急ぎまゐりて、「かかること侍りし」と、上もおはします御前にて語り申し給ふ。宮ぞいとつれなく御覧じて、「藤大納言の手のさまにはあらざめり。法師のにこそあめれ。昔の鬼のしわざとこそおぼゆれ」など、いとまめやかにのたまはすれば、「さは、こは誰がしわざにか。すきずきしき心ある上達部、僧綱などは、誰かはある。それにや。かれにや」など、おぼめき、ゆかしがり申し給ふに、
現代語訳
それを二つとも持って、急いで参上して、「このようなことがありました」と、上【一条天皇】もいらっしゃる御前で語り申し上げなさる。宮【中宮定子】は、たいそうそっけなく御覧になって、「籐大納言の筆跡の様子ではないようだ。法師の筆跡であるようだ。昔の鬼の仕業と思われるよ」などと、とても真面目におっしゃったので、(籐三位は)「そうであれば、これは誰の仕業であるのか。ひどく趣味に凝った心がある【物好きな心がある】上達部、僧鋼などは、誰がいるのか。その人であるか。あの人であるか」などと、まごつき【いぶかしく思い】、知りたがり申しあげなさると、
前後のお話はこちらをどうぞ。
ポイント
おぼめく 動詞(カ行四段活用)
「おぼめき」は、動詞「朧めく」の連用形です。
動詞「めく」が、何らかの語につくと、「~らしくなる」「~のようになる」「~のように見える」という意味の動詞になります。
たとえば、「春めく」であれば、「春らしくなる」ということですね。
さて、「朧(おぼろ)」は、「対象がぼんやりしてはっきりしない」ことを意味する語です。たとえば「朧月」であれば、くっきりしていない、ぼんやりかすんだ月のことです。
「おぼめく」の「おぼ」も、「ぼんやりしていてはっきりしない」ことを意味しています。
そのことから、「ぼんやりした、曖昧な態度をとる」ことを表す場合は、「とぼける」「知らないふりをする」などと訳します。
一方で、そういった「ぼんやりした、はっきりしないもの」に対する態度を表す場合もあり、それは「いぶかしく思う」「まごつく」などと訳します。
ここでは、真犯人がわからない事件について、「誰がやったんですか?」って知りたがっているわけですから、「いぶかしく思う」「まごつく」と訳したほうがいいですね。
ゆかしがる 動詞(ラ行四段活用)
「ゆかしがり」は、動詞「ゆかしがる」の連用形です。
形容詞「ゆかし」が、動詞化したものです。
「ゆかし」は、対象に興味を引かれることを意味し、「見たい・聞きたい・知りたい」などと訳します。
「ゆかしがる」は、その動詞版と考えればいいので、「見たがる」「聞きたがる」「知りたがる」などと訳せばOKです。
申す(まうす) 敬語動詞(サ行四段活用)
「申し」は、敬語動詞「まうす」の連用形です。「客体(行為の受け手)」への敬意を示す「謙譲語」です。
「申す」は、「下位から上位の者への発言」を意味する動詞です。
実際の立場が「上位/下位」となっていなくても、「申す」が使用されているのであれば、「客体(受け手)」のほうに敬意が向かっているとみなします。
なお、敬語における「敬意の出どころ」は、すべて「ことばの作り手」であるので、地の文であれば「作者からの敬意」を示すと考えます。
さて、先ほど「発言」と言いましたが、「【他の動詞】申す」というように、「申す」が「補助動詞」で使用されている場合は、「発言」の意味は消えます。「申す」の直前の「行為」をさしあげているのだと考えましょう。
訳としては、「お~し申し上げる」「お~してさしあげる」などと訳します。
ここでは、「知りたがる(聞きたがる)」という行為の客体(受け手)は「上・宮」となりますので、「上・宮」への敬意を示す謙譲語と考えます。
給ふ(たまふ) 敬語動詞(ラ行四段活用)
「給ふ」は、敬語動詞「たまふ」の連体形です。「主体(行為者)」への敬意を示す「尊敬語」です。
古文では、「謙譲語」+「尊敬語」のセットになるときは、必ず「謙譲」⇒「尊敬」の語順になります。
「 申し + 給ふ 」
謙譲 + 尊敬
というパターンはとてもよく出てきますので、訳し方も含めて覚えてしまえるといいですね。
「申す」が「本動詞」であれば、「申し上げなさる」と訳します。
「申す」が別の動詞につく「補助動詞」であれば、「~し申し上げなさる」と訳します。
ここでは、「申す」は「上・宮」への敬意を示しており、「給ふ」は「藤三位」への敬意を示していることになりますから、「申し給ふ」という表現は、二方面への敬意を示していることになります。
繰り返しますが、敬語における「敬意の出発点」は「ことばの作り手」ですから、「申す」は「作者から上・宮への敬意」を示しており、「給ふ」は、「作者から藤三位への敬意」を示していることになります。
「敬語」のトレーニングとしては、次の演習をどうぞ!