〈問〉次の古文を現代語訳せよ。
例の方におはして、髪は尼君のみ削りたまふを、別人に手触れさせむもうたておぼゆるに、手づからはた、えせぬことなれば、ただすこし解き下して、 親に今一度かうながらのさまを見えずなりなむこそ、人やりならず、いと悲しけれ。いたうわづらひしけにや、髪もすこし落ち細りたる心地すれど、何ばかりも衰へず、いと多くて、六尺ばかりなる末などぞ、いとうつくしかりける。筋なども、いとこまかにうつくしげなり。
源氏物語
現代語訳
いつもの部屋にいらっしゃって、髪は尼君だけがお梳きになるのを、他人に手を触れさせるようなことも嫌に思われるが、自分自身ではそうはいっても、できないことであるので、ただわずかに解きおろして、親にもう一度このままの姿を見せることがなくなったのは、自ら決めたこと(だが)、たいそう悲しい。ひどく病んだからだろうか、髪(の量)も少し落ちて細くなった感じがするが、それほども衰えず、たいそう多くて、六尺ほどある末【髪先】などは、とても美しかった。(髪の)毛筋なども、たいそうきめこまやかで美しく見える。
ポイント
さす 助動詞
「させ」は、助動詞「さす」です。
ここでは下に「む」があるので、未然形になっています。
直後に尊敬語を伴わない「さす」は「使役」の意味になりますので、ここでの意味は「使役」です。
む 助動詞
「む」は助動詞「む」です。
ここでは、下に「こと」を補うことができるので、規則的にいえば「体言の省略」が起きています。そのため、「む」は「連体形」です。
文中連体形の「む」は「婉曲(~のような)」か「仮定(もし~ならば)」の意味になります。この2つの区別は実に曖昧なものですし、どちらで訳しても問題ない文もたくさんあります。いちおうのルールとしては、次のように考えておくと便利です。
〈文中連体形の「む」〉
直後に体言が明示されていれば「婉曲」
直後に体言が明示されていなければ「仮定」
とはいえ、やはりどちらで訳しても通じるケースが多くなります。
この文脈でも、
「婉曲」 手を触れさせるようなことも~
「仮定」 手を触れさせるとしたらそれも~
というように、どちらで訳しても間違いではありません。
うたて 副詞
「うたて」は「転」と書き、最初は「うたた」と読んでいたようですが、次第に「うたて」になりました。そこから「うたてし」という形容詞も生まれましたが、ここでは副詞の「うたて」です。自分の意志とは無関係に事態がどんどん進んでいって(転がっていって)しまうことを意味することから、訳は、
困ったことに~
嫌に~
不快に~
というものになります。
おぼゆ 動詞
「おぼゆる」は動詞「おぼゆ」の連体形です。直後に接続助詞「に」があるので、そこに接続するために連体形になっています。
意味は、
思われる
思い出される
覚える
似る
といったものですが、「(ふと)思われる」というニュアンスになることが多いので、「思われる」を当てはめてみて、通じるなら「思われる」としておけば問題ありません。
+α ゆ らゆ
上代の助動詞「ゆ」「らゆ」には、「自発」「受身」「可能」などの意味がありましたが、中古では「る」「らる」になっていったので、「ゆ」「らゆ」は消えていきました。ただ、「おぼゆ」「みゆ」など、「ゆ」で終わる動詞の意味には、「ゆ」の名残があります。
「おぼゆ」であれば、「自然と思われる」というニュアンスになりますし、「見ゆ」であれば、「自然と目に入る」「見られる(現れる)」といったニュアンスになります。
ところで「ゆ」「らゆ」が「る」「らる」に取って代わられる中で、「尊敬」の意味でも使われるようになりましたが、
自発
受身
可能
尊敬
どの意味になるにしても、もともとの語義は「自分の意志では動かせないこと」です。
「自発」は、「無意識の行為」につきます。
「受身」は、「向こうからやってくる行為」につきます。
「可能」は、打ち消し表現とセット用いられ、全体の文意としては「できない」の意味になります。つまり、状況としては「不可能な行為」につきます。
「尊敬」は、「自分が操作できない上位の者の行為」につきます。
要するに、「る」「らる」は、「自分が積極的にそうしたかったわけではない現象」につけるラベルなのです。
+α に、を、が、
行くに、
食ふを、
詠むが、
といったように、活用語に「に、」「を、」「が、」がついて、次の部分に続いていく場合、その「に、」「を、」「が、」は接続助詞とみなします。
しかし、これらはもともとは、
行くときに、
食ふものを、
詠むうたが、
といったように、あいだに体言があったはずの言い回しでもあります。もともとは体言があった言い回しであるからこそ、活用語は「連体形」になります。
訳は、
~すると、~したところ、(順接)
~ので、(因果)
~が、 (逆接)
のどれかを、文脈に応じて当てはめます。
明らかに体言を補って訳したほうがよいときもあります。それは接続助詞ではなく「格助詞」と考えたほうがよい場合もあります。

「別人」「異人」は「ことひと」