この道を立てて世にあらんには、仏だによく書きたてまつらば、百千の家も出で来なん。(宇治拾遺物語)

〈問〉次の傍線部を現代語訳せよ。

 これも今は昔、絵仏師良秀といふありけり。家の隣より火出で来て、風おしおほひてせめければ、逃げ出でて大路へ出でにけり。人の書かする仏もおはしけり。また、衣着ぬ妻子なども、さながら内にありけり。それも知らず、ただ逃げ出でたるをことにして、向かひのつらに立てり。
 見れば、すでに我が家に移りて、煙、炎くゆりけるまで、おほかた、向かひのつらに立ちてながめければ、「あさましきこと。」とて、人ども来とぶらひけれど、騒がず。「いかに。」と人言ひければ、向かひに立ちて、家の焼くるを見て、うちうなづきて、時々笑ひけり。「あはれ、しつるせうとくかな。年ごろは、わろく書きけるものかな。」と言ふ時に、とぶらひに来たる者ども、「こはいかに、かくては立ちたまへるぞ。あさましきことかな。もののつきたまへるか。」と言ひければ、「なんでふ、物のつくべきぞ。年ごろ、不動尊の火炎を悪しく書きけるなり。今見れば、かうこそ燃えけれと、心得つるなり。これこそせうとくよ。この道を立てて世にあらんには、仏だによく書きたてまつらば、百千の家も出で来なん。わ党たちこそ、させる能もおはせねば、物をも惜しみたまへ。」と言ひて、あざ笑ひてこそ立てりけれ。
 そののちにや、良秀がよぢり不動とて、今に、人々めで合へり。

宇治拾遺物語

現代語訳

 これも今は昔(今となっては昔)、絵仏師良秀という者がいた。家の隣から火事が起こって、風が(家を)覆うようにして迫ってきたので、(良秀は)逃げ出して大通りに出てしまった。(家には)人が(依頼して良秀に)描かせている仏(画)もいらっしゃった。また、衣服を着ていない妻子なども、そのまま家の中にいた。(良秀は)それも知らないで、ただ(自分ひとりが)逃げ出したのをよいことにして、(通りの)向かいの側に立っていた。
 見ると、すでに我が家に(火が)移って、煙や炎がくすぶるまで、だいたいずっと、大通りの向こう側に立って眺めていたところ、「おどろきあきれること。」と言って、人々がやって来て見舞ったけれど、(良秀は)騒がない。「どうしたのだ。」と人が言ったところ、(良秀は)向かいに立って、家が焼けるのを見て、うなずいて、時々笑っていた。
 「ああ、もうけものをしたなあ。長年、(炎を)下手に描いたものだなあ。」と(良秀が)言うので、見舞いにやって来た人々は、「これはどうして、このように(何もせずに)お立ちになっているのか。驚きあきれたことだよ。物の怪が取り付いていらっしゃるか。」と言ったところ、(良秀は)「どうして物の怪がとりつくはずがあろうか。長年、不動尊の火炎を下手に描いていたのだ。今見ると、このように燃えるのだったなあと、理解したのだ。これこそもうけものよ。この道【絵仏師として】身を立てて生活していくならば、仏(の絵)だけでもうまくお描き申し上げれば、(その儲けで)百千(軒)の家もきっと建つだろう。おまえたちこそ、それというほどの才能もおありでないから、物なんかを惜しみなさるのだ。」と言って、あざ笑って立っていた。
 その後のことだろうか、良秀のよじり不動と言って、今でも、人々が(良秀の絵を)賞賛し合っている。

ポイント

ん 助動詞

「ん」は、助動詞「ん」の連体形です。

助動詞「ん(む)」は、文中連体形で用いられている場合、「仮定・婉曲」の意味になります。

「仮定」なのか「婉曲」なのかは、区別できない(どちらでもいい)ケースが多いので、あまり気にしなくて大丈夫です。ただ、根本的には「仮定」なので、どちらでも訳せるのであれば「仮定」でとっておくのがいいです。

あるいは、

◆「ん(む)」の直後に、体言が書かれていなければ「仮定」
◆「ん(む)」の直後に、体言が書かれていれば「婉曲」

という考え方も有効です。

ただ、必ずしもそのとおりに区別できるわけではないので、最終判断は「前後関係」ですね。

ここでは、「後ろの体言」が書かれていませんし、「~ならば」と訳してみて問題ないので、「仮定」と判断します。

だに 副助詞

「だに」は副助詞です。

根本的には「唯に」ということであり、「たった一つ」「ほんのわずか」ということです。

「意志・願望・命令・仮定」などの文脈であれば「(せめて)~だけでも(する・したい・せよ・ならば)」と訳します。(最小限の限定)

「打消」の文脈であれば「~さえ(ない)」と訳します。(類推)

ここでは、「仮定」の文脈なので、「最小限の限定」と考え、「仏の絵だけでもうまく書ければ」と訳します。

でもこれ、教科書ガイドとかだと、「仏の絵さえうまく書ければ」って訳してるものが多いよ。

「最小限の限定」の「だに」を「仮定」の文脈で使う場合、辞書通りの訳し方だと、「(せめて)これだけでもあれば(いいのに)」というような文意になるのですが、この文を、「これさえあれば(いいのに)」と表現しても、ほとんど同じ意味として伝わります。

つまり、「仮定文」にしぼっていえば、「さえ」という表現は、「最小限の限定」にも「類推」にも使うことができる表現だと言えます。したがって、「仏の絵さえうまく書ければ」と訳しても問題はありません。

重要なのは、「さえ」と訳していても、言外に何かを類推させる表現ではありませんので、分類上は「最小限の限定」であるということですね。

たてまつる 敬語動詞(ラ行四段活用)

「たてまつら」は、敬語動詞「奉る(たてまつる)」の未然形です。

「本動詞」の場合、

◆「与ふ」の謙譲語として「差し上げる」と訳す。
◆「遣る」の謙譲語として「参上させる」と訳す。
◆「着る」の尊敬語として「お召しになる」と訳す。
◆「食ふ・飲む」の尊敬語として「召し上がる」と訳す。
◆「乗る」の尊敬語として「お乗りになる」と訳す。

といったように、文脈に応じて様々な訳し方をしますが、

「補助動詞」の場合、すべて謙譲語と考えて、

お~申し上げる(お~する)
~してさしあげる

と訳します。

そして、実際には、この「補助動詞」の使い方がほとんどですので、文中に「たてまつる」があるときは、多くの場合「お~申し上げる」「~してさしあげる」と訳します。

ここでは、「書きたてまつらば」というように、「書く」という動詞についていますので、補助動詞(=謙譲語)と判断し、「お描き申し上げる」と訳すことになります。

本文が「書く」なので、「書」のままでも問題ありませんが、話題が「絵」ですから、ここでの訳では「描」のほうを用いています。

ば 接続助詞

「ば」は、接続助詞です。

「未然形+ば」「仮定条件」として「(もし)~ならば・すれば」と訳します。

「已然形+ば」「確定条件」として「~なので・(する)ところ・(する)と」と訳します。

ここでは「たてまつら」が「未然形」なので、「お描き申し上げれば」「お描き申し上げるならば」などのように「仮定条件」として訳します。

なん 連語

完了の助動詞「ぬ」+推量の助動詞「ん」の連語です。

いわゆる「確述用法」と言われるものです。

完了の助動詞「ぬ」に、「意志」や「推量」の「む(ん)」がつくと、未然形の「な」になります。

この「な」は、「完了」とは区分せずに「確述・確認・強意」などとするのが一般的です。

「確実性の高い推量」ということになるので、「きっと~だろう」「たしかに~だろう」「間違いなく~だろう」などと訳します。

ここでは、「百や千の家がきっと出て来るだろう」ということになりますが、家がどこからか勝手にやって来るのではなく、「絵仏師は、仏の絵さえ描ければ、(成功して)百や千の家がきっと建つだろう」と訳せるといいですね。