『大鏡』より、「雲林院の菩提講(うりんゐんのぼだいかう)」の現代語訳です。
『大鏡』のはじまりのところです。
京都紫野にある雲林院の菩提講に居合わせた老人たちが、遠い昔の話をし始めるのですね。
書かれた時期は1028年~1141年ごろであって、「老人たちが見聞きしてきたことを語る」という形式をとっているのですが、話している内容は850年~1025年という長い期間についてなのですね。
176年分の歴史を、見てきたように語っているということか……。
そりゃあ、世継と繁樹はとてつもない年齢ということになるね。
先つ頃、~
先つ頃、雲林院の菩提講に詣でてはべりしかば、例の人よりはこよなう年老い、うたてげなる翁二人、嫗と行き会ひて同じ所に居ぬめり。あはれに、同じやうなるもののさまかなと見はべりしに、これらうち笑ひ、見交はして言ふやう、
先頃、(作者が)雲林院の菩提講に参詣いたしましたところ、普通の人よりは格別に年老い、異様な感じのする老人が二人、老女と行き会って、同じ所に座ったと見える。しみじみと、「同じような老人の様子だなあ」と見ていましたが、老人たちが笑い、顔を見合わせて言うことには、
「年ごろ、~
「年ごろ、昔の人に対面して、いかで世の中の見聞くことをも聞こえ合はせむ、このただ今の入道殿下の御有様をも、申し合はせばやと思ふに、あはれにうれしくも会ひまうしたるかな。今ぞ心安く黄泉路もまかるべき。思しきこと言はぬは、げにぞ腹ふくるる心地しける。かかればこそ、昔の人はもの言はまほしくなれば、穴を掘りては言ひ入れはべりけめとおぼえはべり。返す返すうれしく対面したるかな。さても、いくつにかなりたまひぬる。」と言へば、
「長年、昔なじみの人に対面して、どうにかして(今まで)世の中の見聞きしてきたことをお話し合い申し上げたい、現在の入道殿下【藤原道長】のご様子をも、語り合い申し上げたいと思っているときに、感慨深くうれしいことにお会い申し上げたなあ。今こそ安心して黄泉路【冥途】も参ることができる。お思いになることを言わないのは、本当に腹がふくれる(不快な)気持ちがするなあ。こうであるから、昔の人は何か言いたくなったら、穴を掘って言い入れたのでしょうと思われます。返す返すも、嬉しいことに対面したことだな。それはそうと、(あなたたちは)いくつにおなりになったか。」と言うと、
いま一人の翁、~
いま一人の翁、「いくつといふこと、さらにおぼえはべず。ただし、おのれは、故太政大臣貞信公、蔵人の少将と申しし折の小舎人童、大犬丸ぞかし。ぬしはその御時の母后の宮の御方の召し使ひ、高名の大宅世継とぞいひはべりしかな。されば、ぬしの御年は、おのれにはこよなくまさりたまへらむかし。みづからが小童にてありし時、ぬしは二十五、六ばかりの男にてこそはいませしか。」と言ふめれば、
もう一人の老人が、「何歳かということは、少しも覚えておりません。ただ、私は、故太政大臣貞信公が、蔵人の少将と申していた時の小舎人童(であった)、大犬丸です。あなたはその御代【宇多天皇の時代】の皇太后様の召し使いで、名高い大宅世継というお方ですね。そうであれば、あなたのご年齢は、私よりもずっと上でいらっしゃるでしょう。私が小さい子どもであった時、あなたは二十五、六歳ほどの男でいらっしゃった。」と言う(ようである)と、
世継、「しかしか、~
世継、「しかしか、さはべりしことなり。さてもぬしの御名はいかにぞや。」と言ふめれば、「太政大臣殿にて元服仕まつりし時、『きむぢが姓はなにぞ。』と仰せられしかば、『夏山となむ申す。』と申ししを、やがて、繁樹となむつけさせたまへりし。」など言ふに、いとあさましうなりぬ。
世継は、「そうそう、そうでございます。ところで、あなたのお名前は何とおっしゃるか。」と言う(ようである)と、「太政大臣殿のもとで元服いたしました時、(太政大臣殿から)『おまえの姓は何というのか。』とおっしゃったので、『夏山と申します。』と申し上げたところ、(太政大臣殿が)そのまま(夏山にちなんで)繁樹とおつけになった。」などと言うので、(たいへん昔の話であるので、話を聞いている者は)たいそう驚きあきれてしまった。
たれも、少しよろしき者どもは、~
たれも、少しよろしき者どもは、見起こせ、居寄りなどしけり。年三十ばかりなる侍めきたる者の、せちに近く寄りて、「いで、いと興あること言ふ老者たちかな。さらにこそ信ぜられね。」と言へば、翁二人見かはしてあざ笑ふ。繁樹と名のるがかたざまに見やりて、「『いくつといふこと覚えず。』と言ふめり。この翁どもは覚えたぶや。」と問へば、「さらにもあらず。一百九十歳にぞ、今年はなりはべりぬる。されば、繁樹は百八十に及びてこそさぶらふらめど、やさしく申すなり。おのれは水尾の帝のおりおはします年の、正月の望の日生まれてはべれば、十三代にあひ奉りてはべるなり。けしうはさぶらはぬ年なりな。まことと人おぼさじ。されど、父が生学生に使はれたいまつりて、『下﨟なれども都ほとり』といふことなれば、目を見たまへて、産衣に書き置きてはべりける、いまだはべり。丙申の年にはべり。」と言ふも、げにと聞こゆ。
(参詣者の中の)誰も、少し身分や教養がある者たちは、(老人たちを)見起こし、(近くに)いざり寄るなどした。年齢が三十ほどである侍らしく見えた者が、しきりに(老人たちの)近くに寄って、「おやまあ、たいそうおもしろいことを言う老人たちだなあ。まったく信じられない。」と言うと、老人二人は顔を見合わせて高らかに笑う。(侍が)繁樹と名のる方に目をやって、「『幾つということを覚えていない。』と言うようだ。こちらのご老人は覚えていらっしゃるか。」と尋ねると、(世継は)「言うまでもない。百九十歳に、今年はなりました。そうであるから、繁樹は百八十に及んでおりますでしょうが、慎んで(覚えていないなどと)申し上げるのだ。私は水尾の帝【清和天皇】がご退位なさる年の正月の望の日【十五日】に生まれておりますので、(清和天皇から)十三代(の天皇)にお会い申し上げております。(すると、百九十歳というのは)おかしくはございません年であるな。本当のことだと(世の)人はお思いになるまい。しかし、父が大学寮の若い学生に使われ申し上げて、『身分の低い者であっても都のあたり(に住む者は見聞が広い)』」と(ことわざに)いうことであるので、文字を読みまして、産衣に(生年月日を)書き置いておりましたものが、いまだございます。丙申の年でございます。」と言うのも、なるほど【もっともらしい】と思われる。
いま一人に、~
いま一人に、侍「なほ、わ翁の年こそ聞かまほしけれ。生まれけむ年は知りたりや。それにていとやすく数へてむ」と言ふめれば、「これはまことの親にも添ひ侍らず、他人のもとに養はれて、十二三まではべりしかば、はかばかしくも申さず。ただ、『われは子生むわきも知らざりしに、主の御使ひに市へまかりしに、また、私にも銭十貫を持ちてはべりけるに、憎げもなき児を抱きたる女の、「これ人に放たむとなむ思ふ。子を十人まで生みて、これは四十たりの子にて、いとど五月にさへ生まれてむつかしきなり」と言ひはべりければ、この持ちたる銭にかへて来にしなり。「姓は何とか言ふ」と問ひはべりければ、「夏山」とは申しける』。さて、十三にてぞ、大き大殿には参りはべりし。」など言ひて、
もう一人(の老人)に、侍が「やはり、あなたの年を聞きたいものだ。生まれたであろう年は知っているか。それによってたやすく数えてしまおう」と言う(ようである)と、(繁樹は)「私は本当の親とも寄り添っておりませんで、他人の許で養われて、十二、三歳までおりましたので、(養父も)詳しいことは申さなかった。ただ、『私は(家庭を持ち、)子を生む分別もわからなかったが、主人のお使いで市へ出かけたときに、また、私個人としても銭十貫を持っておりましたが、にくらしくない子を抱いている女が、「この子を人に手放そうと思う。子どもを十人まで生んで、この子は(夫が)四十歳のときの子で、そのうえさらに五月にまで生まれて、(育てるのが)めんどうなのだ」と言いましたので、この持っていた銭に替えて来たのである。「姓は何と言うか」と尋ねましたところ、(女は)「夏山」と申した』。そうして、(私は)十三歳で、太政大臣【藤原忠平】(のもと)に(奉公に)参上しました。」などと言って、
「さても、うれしく対面したるかな。~
「さても、うれしく対面したるかな。仏の御しるしなめり。年ごろ、ここかしこの説経とののしれど、何かはとて参らずはべり。かしこく思ひ立ちて、参りはべりにけるが、うれしきこと。」とて、「そこにおはするは、その折の女人にやみでますらむ。」と言ふめれば、繁樹がいらへ、「いで、さもはべらず。それは早や失せはべりにしかば、これは、その後相添ひてはべるわらべなり。さて閤下はいかが。」と言ふめれば、世継がいらへ、「それははべりし時のなり。今日もろともに参らむと出で立ちはべりつれど、わらはやみをして、あたり日にはべりつれば、口惜しくえ参りはべらずなりぬる。」と、あはれに言ひ語らひて泣くめれど、涙落つとも見えず。
(世継は)「それにしても、うれしく対面したことだなあ。仏のご利益であるようだ。ここ数年、あちらこちらの説経(に参る)と(世間が)騒ぐが、何事であろうか、いや何事でもないと思って参詣しないでおります。(しかし今日は)具合よく思い立って、参詣したのでございますが、(そこでお会いできて)うれしいことだ。」と言って、「そこにいらっしゃるのは、そのときの妻でいらっしゃるのだろうか。」と言う(ようである)と、繁樹の返事は、「いや、そうではございません。それ【その時の妻】はすでに亡くなりましたので、これは、その後にともに寄り添っております妻である。さて、あなたは」いかがか。」と言う(ようである)と、世継の返事は、「それは【自分の妻は】(かつてともに)おりました時の妻である。今日いっしょに参詣しようと出発の用意をいたしましたが、おこり病【マラリアの一種】にかかって、(今日は)発作の起こる日でございましたので、残念ながら参詣することができなくなりました。」と、しみじみと語り合って泣くようだが、(語り手からは)涙が落ちるとも見えない。
かくて講師待つほどに、~
かくて講師待つほどに、われも人も久しくつれづれなるに、この翁どもの言ふやう、「いで、さうざうしきに、いざたまへ。昔物語して、このおはさふ人々に、『さは、いにしへは、世はかくこそはべりけれ』と、聞かせ奉らむ。」と言ふめれば、いま一人、「しかしか、いと興あることなり。いで覚えたまへ。時々さるべきことのさしいらへ、繁樹もうち覚えはべらむかし。」と言ひて、言はむ言はむと思へるけしきども、いつしか聞かまほしく、おくゆかしき心地するに、そこらの人多かりしかど、ものはかばかしく耳とどむるもあらめど、人目にあらはれて、この侍ぞ、よく聞かむと、あど打つめりし。
こうして講師を待つ間、私【作者】も人も長い間することがなくて【手持ちぶさたで】、この老人たちが言うことには、(世継が)「いやはや、もの足りなくて寂しいから、さあいらっしゃい。昔のお話をして、ここにいらっしゃる【居合わせておられる】人々に、『それでは、昔は、世の中はこうでございました』と、聞かせ申し上げよう。」と言う(ようである)と、もう一人【繁樹】が、「そうだそうだ。たいそうおもしろいことである。さあ(昔を)思い出しなされ。時々ふさわしいことの受け答え(をする者として)、繁樹も何か覚えておりますことよ。」と言って、(昔物語を)言おう言おうと思っている様子など(を見ると)、(私も)早く聞きたくなって、心引かれる気持ちでいるところに、周囲の人は多かったが、しっかりと聞き耳を立てる者もいるだろうが、(その中でも特に)人目について、この侍は、よく聞こうと、あいづちを打つようであった。
世継が言ふやう。~
世継が言ふやう。「世はいかに興あるものぞや。さりとも、翁こそ、少々のことは覚えはべらめ。昔さかしき帝の御政のをりは、『国のうちに年老いたる翁・嫗やある』と召し尋ねて、古の掟のありさまを問はせたまひてこそ、奏することを聞こし召し合はせて、世の政は行はせたまひけれ。されば、老いたるは、いとかしこきものにはべり。若き人たち、なあなづりそ。」とて、黒柿の骨九つあるに、黄なる紙張りたる扇をさし隠して、気色だち笑ふほども、さすがにをかし。
世継が言うことには、「世の中はなんとまあおもしろいものか。それにしても、老人こそ、少々のことは覚えております。昔賢い帝の御政治の際には、『国の中に年老いた翁や嫗はいるか』と呼び求めて、古の掟【政治のしくみ】をお尋ねになって、申し上げることをお聞きになって(それを)参考にして、世の政治を実行なさった。そうであるから、老いている者は、たいそうおそれ多い者でございます。若い人たちよ、馬鹿にしないでくれるな。」と言って、黒柿の骨が九本あるものに、黄色の紙を張ってある扇をかざして口元を隠して、気どって笑うありさまも、やはり趣きがある。
「まめやかに世継が申さむと思ふことは、
「まめやかに世継が申さむと思ふことは、ことごとかは。ただいまの入道殿下の御ありさまの、世にすぐれておはしますことを、道俗男女の御前にて申さむと思ふが、いとこと多くなりて、あまたの帝王・后、また大臣・公卿の御上を続くべきなり。そのなかに、幸ひ人におはします、この御ありさま申さむと思ふほどに、世の中のことの隠れなく現るべきなり。つてに承れば、法華経一部を説き奉らむとてこそ、まづ余教をば説きたまひけれ。それを名づけて五時教とはいふにこそはあなれ。しかのごとくに、入道殿の御栄えを申さむと思ふほどに、余教の説かるると言ひつべし。」など言ふも、わざわざしく、ことごとしく聞こゆれど、いでや、さりとも、何ばかりのことをかと思ふに、いみじうこそ言ひ続けはべりしか。
(世継が言うには)「まじめに世継が申し上げようと思うことは、他のことであろうか、いや、他のことではない。ただ今の入道殿下【藤原道長】の御有様が、実に優れていらっしゃることを、道俗男女【僧侶も俗人も男も女もここにいるすべての人】の御前で申し上げようと思うが、(話すべき内容について)たいそう事柄が多くなって、多くの帝・后、また大臣・公卿の御身の上を次々と話さなければならないのだ。その中でも、(最も)幸福な人でいらっしゃる、この(道長の)御有様を申し上げようと思ううちに、世の中のことが隠れることなく明らかになるはずである。人伝にお聞きすると、法華経一部をお説き申し上げようとして、まず余教【他の教義】をお説きになったとのこと。それを名付けて五時教【釈迦一代の説教を五期にまとめたもの】と言うのであるそうだ。それと同じように、入道殿【道長】の栄華を申し上げようと思ううちに、余教が説かれる【他の話が語られる】と言ってよいだろう。」などと言うのも、わざとらしく、大げさに聞こえるが、いやなに、そうはいっても、どれほどのことを(語るの)か【それほどのことは語るまい】と思うが、並々でなく言い続けたのでございます。
「世間の摂政・関白と申し、~
「世間の摂政・関白と申し、大臣・公卿と聞こゆる、古今の、皆、この入道殿の御ありさまのやうにこそはおはしますらめとぞ、今様の児どもは思ふらむかし。されども、それさもあらぬことなり。言ひもていけば、同じ種、一つ筋にぞおはしあれど、門別れぬれば、人々の御心もちゐも、また、それにしたがひてことごとになりぬ。
(世継が言うには)「世間が摂政・関白と申し上げ、大臣・公卿と申し上げる、昔や今の(人たちは)、皆、この入道殿【道長】の御有様のよう(に立派)でいらっしゃるだろうと、今の若者たちは思っているだろうよ。けれども、それはそうでもないことである。言い続けて話をつめていくと【せんじつめると】、同じ祖先、一つの血筋【藤原一族】でいらっしゃっても、一門が分かれてしまうと、人々のお心持ちも、また、それにしたがって別々になってしまった。
この世始まりて後、~
この世始まりて後、帝はまづ神の世七代をおき奉りて、神武天皇をはじめ奉りて、当代まで六十八代にぞならせたまひにける。すべからくは、神武天皇をはじめ奉りて、次々の帝の御次第を覚え申すべきなり。しかりと言へども、それはいと聞き耳遠ければ、ただ近きほどより申さむと思ふにはべり。
この世が始まって以来、帝はまず神の世七代をお措き申し上げて【お除き申し上げて】、神武天皇をはじめとし申し上げて、当代まで六十八代におなりになった。当然、神武天皇をはじめとし申し上げて、次々の帝の御順序を思い出し(てお話し)申し上げなければならない。そうであると言っても、それはたいそう聞く耳に遠いので【聞く立場の皆からすると時代が古く実感がわかないので】、ただ(今に)近い時代から申し上げようと思うのでございます。
文徳天皇と申す帝おはしましき。~
文徳天皇と申す帝おはしましき。その帝よりこなた、今の帝まで十四代にぞならせたまひにける。世を数へはべれば、その帝、位につかせたまふ嘉祥三年庚午の年より、今年までは一百七十六年ばかりにやなりぬらむ。かけまくもかしこき君の御名を申すは、かたじけなくさぶらへども。」とて、言ひ続けはべりし。
文徳天皇と申し上げる帝がいらっしゃった。その帝よりこちら、今の帝まで十四代におなりになった。時代を数えれば、その帝が、位にお就きになった嘉祥三年庚午の年から、今年までは百七十六年ほどにきっとなるだろう。言葉にして口に出すのもおそれ多い天皇の御名を申し上げるのは、もったいないことでございますが。」と言って、話し続けました。